SSブログ

広州、香港旅行 [中国旅行]

中国に2年広州に赴任している長男から、私たち夫婦と先日結婚した長女夫婦に広州旅行の招待があった。
長女の夫は仕事のあるため、私たち夫婦と長女が、1月17日(金)から22日(火)まで広州へ旅行することになった。
私達は中部から長女は成田から出発、香港空港で待ち合わせ、香港からは広州までは「九広鉄道」の直通列車。これまで広州には行ったことはあるが、自分で入出国手続きをして中国に行くことは初めて。
航空会社は全日空直通便、意外と空いている。私の窓際席の隣二席が空席、後ろの窓際の妻の席も隣が空いている。直通便でも香港は遠い。窓からは沖縄、石垣島、台湾の島々がはっきりと見える。添乗員が香港の入国カードを配ってくる。香港の宿泊場所を書く欄がある。香港には泊まらず広州に泊まるのでどう書くか尋ねたら中国の入国カードを持ってきた。おかしいので問い合わせていたら妻の隣席の日本人のビジネスマンらしき人が香港の入国カードを記載し、宿泊しなければ宿泊場所は空欄でも良いと教えてくれた。添乗員もあまり詳しくなさそうだ。
香港国際空港に無事着陸。3万円を両替。レートは1元が約15円。空港内のマクドナルドで2時間後に到着する長女と待ち合わせ。コーラとジュースを注文しようと思い、元で支払おうと思ったら香港ドルでないと通用しないとのこと。このため一万二千円を香港ドルに両替。レートは1ドルが約15円。マクドナルドの価格は日本とほとんど同じ。香港は物価が高いようだ。skypeで長男と連絡しようと無料で使える無線LANを操作したが使えない。(帰国時にわかったが、無料サイトも空港のと業者提供のがあり接続先が違っていたようだ)
携帯で無事香港についたと先ず一方。約3時間待って長女が到着。台北乗り継ぎの飛行機が遅れたようだ。
エアーポートエクスプレスに乗ろうと自動券売機にお金を入れたら故障。慌てて窓口に行って故障を通知。お金を返してもらい、九龍までの切符を購入。3人だとグループチケットで270ドルが190ドルに割引。
九龍で地下鉄に乗り換えて紅磡(ホンハム)に行こうと駅員に聞いたらエレベータで上に行けと指示。地下鉄なのにと思いつつ上に上ると、そこは無料シャトルバスの乗り場。紅磡駅までは2駅。乗ると物凄いスピードで疾走。紅磡駅の旅客案内で「中国広州」と書きチケット売り場を聞き、そこで購入。座席指定で広州東駅まで一人190元。18時44分発の列車を確保。出発まで約1時間、駅構内をぶらつき30分前に乗車口へ、出国カード書き、審査を済まして乗車。長い列車で指定席は満席。
koushuu001_R.jpg
車体は日本の列車よりも大きく荷物置場が高い。
koushuu002_R.jpg
これから約2時間、ゆっくりと列車は進む。途中で東莞市(とうかんし)に止まっただけで広州東駅に20時43分に到着。駅を出て長男と3ヶ月ぶりに再会。タクシーに乗り約20分で中国大酒店に到着。物凄く立派なホテル。正規で買うと高額だが安く買えたとのこと。
無料の無線LANが使えるので利用確認、部屋番号と名前を入力すると一日$100との有料案内がでる。長女に確認したら、有料案内が出なかったとのことで長女の部屋の部屋番号と名前で利用。後で有料表示されても無料と確認。
チェックイン後ホテル隣のアラブ料理店「一千一夜餐庁」で食事。雰囲気もアラブ風でゴージャスでうまい。
koushuu003_R.jpg
二日目
無線LANで日本のnews等を確認後、LINEで妻は姪や友達に連絡。
ホテルを出て、近くの越秀公園を散策。
koushuu004_R.jpg
西門より入る。池には靄が出て絵になる風景。公園内の坂道を上がり、広州博物館へ。
koushuu005_R.jpg
赤い5階建ての大きな建物。中には古代から現代までの広州の歴史が展示してある。海のシルクロードは日本やヨーロッパ・アフリカと結んでいた。5階でお土産屋のおばさんに日本語で話しかけられ、家族全員の写真も取ってもらう。御礼に馬と龍の子の25元程度の飾り物を買う。広州は日本からの観光コースにはなっていないが、日本語の案内書があるなど広州に来る人もいるようだ。高台なので公園内や長男の会社が入っている高層ビルがよく見えた。
koushuu011_R.jpg
博物館を出て、広州のシンボルの五羊石像がある五羊仙庭を見学。
koushuu006_R.jpg
koushuu007_R.jpg
来年の年賀状用に家族全員で五羊石造の前で写真撮影。石像見学後、孫文を称えた記念塔を見学、辛亥革命の有名な文書「革命いまだ成らず」や辛亥革命の理念が彫られていた。
koushuu008_R.jpg
この辺りに孫文の居所があったようだ。塔を降りて、中山紀念堂を見学。
koushuu009_R.jpg
koushuu010_R.jpg
建物の前には孫文の銅像があり、堂内は、講演会場のようになっており講演会場の周りには辛亥革命の経緯が書いてあり、日本との関わりも多く示されていた。この後、昼食に長男の勤めているビルの4階にある料理店で飲茶を味わう。
食後第一の繁華街である北京路に行く。
koushuu012_R.jpg
人人人の大都会、ぶらついて雑貨を売っている百貨店ビルを1階6階まで見学。婦人雑貨、文房具、料理道具、絵、彫刻など色々な製品が展示してある。アイデア製品も多く、中国人は想像力がある面白い人達だと思う。値段は交渉次第、たくさん買えば買うほど安くなる。妻が首飾りの交渉したが結局何も買わなかった。ビルを出て、長男の入っている珠江近くの高層マンション方面へ。
koushuu013_R.jpg
珠江ナイトクルーズのチケットを予約した後、アヘン戦争後列強の領事館などが設置された沙面へタクシーで行く。洋館の数は横浜や神戸よりも多いような感じ。
koushuu014_R.jpg
koushuu015_R.jpg
最近は新しい観光地として紹介されており、結構人数も多かった。コーヒーショップでケーキを注文。値段は日本と変わらなかったが、スーパーのケーキのようで味は今一つだった。18時半クルーズ出航。
koushuu016_R.jpg
地元の人で満員、バイキングも付いている。先ず食事。あっという間になくなった。味は今一。食後ゆっくり夜景を見学。
koushuu017_R.jpg
中国人はビルや橋を電飾できれいに飾ることが大好きだ。ここの夜景もきれいだった。電飾された広州タワーの前で何枚も写真を取った。
koushuu018_R.jpg
クルーズの後は、沙面国医館という足裏マッサージ店で、90分間の充実マッサージ。妻と長女は効果があるというが、私自身は、足裏マッサージはこれで3回目だが痛いのと熱いのだけで、何ら効果なし。効果がない人も居るそうだ。
ホテルへのタクシーは捕まらず、地下鉄で黄沙から越秀公園まで行く。料金を支払うとコインを出てくる。コインをタッチして入り、出る時はコインを回収箱に入れる。一号線は空いていたが二号線は満員。
三日目
朝食はスターバックスで。価格は日本と変わらない。タクシーで40分ほどで広州郊外のサファリパーク「長隆香江野生動物世界」へ到着。料金は80元ほど、窓からタンをはかず、携帯電話で無駄話をしない、物静かな日本のタクシー運転手のような方だった。
動物園では、入り口にインコなどが放し飼いされているが逃げないのが不思議。途中で猿、鳥、熊のショーを見学。猿、白鳥・黒鳥、ホワイトタイガー、虎には、えさを与えることができ楽しめた。
koushuu019_R.jpg
koushuu020_R.jpg
koushuu021_R.jpg
koushuu022_R.jpg
koushuu023_R.jpg
koushuu024_R.jpg
ホワイトタイガー、虎のえさは鳥の肉だった。
昼食は、牛肉入り汁ビーフン。ビーフンは太くて、糸こんにゃくのような食感。こちらの人がよく食べるという魚のすり身団子は今一つだった。
子供のホワイトタイガーとの記念写真を撮った後、連結バスに乗ってサファリパークを見学。空いていたのでゆったりと二人ずつ乗車。
koushuu025_R.jpg
広さに感激。ここではサファリパーク以外でも、動物は檻に入れられずに広い場所に放し飼いされている。
koushuu026_R.jpg
koushuu027_R.jpg
koushuu028_R.jpg
koushuu029_R.jpg
メインはホワイトタイガー。真っ白なものも縞模様があるものもいる。コアラは以外と数が少なかった。
koushuu030_R.jpg
koushuu031_R.jpg
koushuu032_R.jpg
一日楽しんだ後、帰りは地下鉄3号線の長隆漢渓駅から体育西路駅へ。
地下鉄を下りて、スーパーに寄りどんなものを売っているか見学。魚屋のコーナーは日本と比べると小さい。寿司も売っていた。タクシーで中心街のコピーDVDなどの売っている雑貨ビルへ紅白歌合戦や嵐のDVD、ハリウッド映画のDVDを売っていた。雑貨ビルの近くでたこ焼きを売っていたので食べてみる。マヨネーズは一寸甘くて日本のたこ焼きとは違った。鰹節、醤油の旨さを教えれば、売れるのではないか。夕食は越秀公園の近くの四川料理店「双出味概念川菜」で、本格的四川料理を注文。物凄く辛いが美味しかった。珠江ビールで乾杯し、百年湖塗という白酒も飲んだ。百年湖塗は甘くて飲みやすいお酒だった。辛い食事のあと、近くの「水果世界」という甘味料店で亀ゼリーや椰子粥などを食べホテルへ
四日目
広州から香港にホテルから出ているバスで行くことにした。
後一日広州にいてもよかったが、中国語ができる長男は会社で我々に付き合うことができないので、英語が通じる香港に行った方が安心だということで香港行き決定。
いつでも乗れると思ったら満席で、一時間半待って11時半発のバスで出発することとなった。バス料金は90元と列車に比べれば安かった。到着地は香港の旺角。
待ち時間に再び越秀公園に行った。今回は正門から入ったが、月曜日なのに人が一杯で、公園は春節用の大きな張りぼての飾りを作っていた。
koushuu036_R.jpg
御伽噺の色々な面白い銅像を飾ってある成語寓言園を一回りしてホテルに戻った。
koushuu033_R.jpg
koushuu034_R.jpg
koushuu035_R.jpg
バスに乗ると案内係りがシールを胸に貼ってくれた。
約90分でバスは中国側皇崗に到着。ここで中国からの出国審査と香港への入国審査を受ける。バスを乗り換える。すばやく全ての荷物をもって出国事務所へ。出国手続きに続いて、入国手続きどちらも長い行列に並ばなければならない。一緒にやればいいのに。香港行きのバスが見つかるか心配だ。入出国審査のため、数百mの距離を約40分掛かって香港川落馬州に到着。どこにバス亭があるかわからない。偶々同じ乗車券を持っている中国女性が居たので同じ番号列に並んだ。乗車時にもらったシールは、香港側でバスに乗車するために必要なようだ。30分以上待って広州で乗ったバスと同じマークのバスが到着。ここから香港旺角まで自動車専用道を走った。旺角で降り、ホテルで地下鉄乗り場を聞き、中環(セントラル)まで。何とか英語が通じるので困らない。中環で降りて金融センタの近くのホテル蘭桂坊酒店まで歩いて8分。コース選択を誤ったのか、段差の多い坂道を進む。途中のレストランで昼食を食べる。私はビーフカレー。量があって美味しかった。妻と長女は別のものを注文。美味しかったそうだ。これなら夕食不要。ホテルは直ぐに見つかった。高層ホテルで32階、香港の港や夜景がきれいに見える。
koushuu037_R.jpg
ビクトリアピークに行く必要はないと、対岸や山側のビル群が見えるフェリー乗り場方面に出かけることにする。先ずは無料の無線LANが使える4階のホールで休憩。飲み物も全て無料だ。
20時ころフェリー乗り場方面に出発。ビルの照明が本当にきれい。二階建てバスもトラムもきれい。フェリー乗り場から見る対岸のビルの照明も色や模様が変わり華やか。帰りは、世界一長いヒルサイドエスカレータ(動く歩道)に乗り、ホテル方面へ。ホテル近くには、バーや飲食店などが多い。お客がたくさん入っているSaharaというお店に、デザートだけでもいいというので入った。エキゾチックな雰囲気が漂うアラビア風のお店。
koushuu038_R.jpg
デザートはアイスとチョコレートなど3種類、どれも美味しかった。バナナを菓子生地で包んだお菓子(Banana desert)はタジンなべに入れられ火が燃やされ周りにいる皆がわっと言うぐらい魅力的だった。お客はヨーロッパ人が多かった。どんな人が来ているのだろうと話していたら、隣に座ったイギリス人が、天草で海洋生物の研究をして来て、今香港におり、友人の香港大学の先生と飲んでいるところだと話しかけてきた。香港は面白い街だ。
第五日目
朝8時頃ホテルの近くの市場街皇后大道中に朝食を食べに長女と行った。活気があり、八百屋や肉や果物や色々な店が開いている。「泰昌餅家」という有名なお店で香港式エッグタルトを買った後、お向かいにある「羅富記粥麵専家」というお粥専門店でお粥を食べた。その道何十年の老舗だそうだ。美味しかった。香港式エッグタルトは普通のカチカチのタルトと異なり卵も周りも柔らかく美味しかった。
koushuu039_R.jpg
koushuu041_R.jpg
10時半ホテルを出て、香港駅でエアーポートエクスプレス空港行きのチケットを買い(220ドル)空港到着。
長女とはここでさようなら。
帰りの航空機は満席。あっという間に過ぎた楽しい広州、香港旅行でした。
秀明君ありがとう。

nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

トルコ、カッパドキア [旅行]

7月31日(水)
Mさんとトルコ10日間の旅に出ることにした。
旅行会社はトラピックス。今回は中部国際空港から添乗員が付いてくれる。添乗員は山口さん、20代後半の女性。世界中を添乗員として飛び回っているとのこと。
航空券を受け取ると「まる特びっくりトルコ10日間」という搭乗案内、「トルコはこんな国」という手作りのグルメ、飲み物、通貨、買い物などのトルコ紹介案内、「トルコのおみやげ」というお土産と簡単なトルコ語の紹介を渡してくれた。トルコに何回もいっている人なのでより実用的。
21時55分北京経由のエティハド航空にてアブダビへ。北京までは満席。航空機は最新の装備、座席毎にビデオがあり、好きな番組を楽しめる。北京に到着、出発までは約1時間強駐機。我々は機内で時間待ち。外は嵐で出発まで結局4時間弱待たされることになった。北京から乗る人もいたが、座席には余裕がある。複数シート確保して睡眠。中々眠れなく、外をみるとタクマナラカン砂漠が延々と続いている。
朝方アラビア半島の乾いた茶色の岩山が見えてくる。アブダビ空港に到着。ここでイスタンブール行きのエティハド航空機に乗り換える。名古屋からの添乗員がいなければ、ここでの乗り換えは無理だろう。トルコ上空に来ると茶色の岩山が緑の山に変わり、川も湖も見えてくる。13時15分イスタンブール到着。2万円をトルコ通貨に変える。(約400トルコリラ)ガイドのカディール・ムスタファさんと合流。カディールさんは日本へのマツタケの輸出会社にも勤務しており、日本を自転車で旅行しているという日本通。先ずトリカプ宮殿へ、
マルマラ海を右手に走り、トルコの古い城壁の跡を見ながら走る。ブルーモスクの傍を通り、オスマントルコ時代の政治の中心トリカプ宮殿に入る。
toruko010_R.jpg
宝石や建物に見学、テラスから見たマルマラ海の美しさに感動。遠くにボスポラス海峡大橋が見える。
toruko011_R.jpg
グランドバザールでトルコの市場の雰囲気を味わってから、オリエント急行の終着駅シルゲジ駅構内のレストランオリエント エクスプレスで食事。
toruko012_R.jpg
アガサクリスティも来たそうでオリエント急行殺人事件のポスター等が貼ってある。ここから歩いて5分ほどでホテルレガシー・オットマンに到着。昔の豪華な造りの建物で、吹き抜けがある。
部屋からは、吹抜けのホールしか見えない。無線LANが使えることを確認後、ホテルの近傍を散策。イエニ・ジャーミィのモスクがライトアップされきれい。街のあちこちで市民が食事やお茶(チャイ)を飲み皆で語らっており楽しそうだ。ビールを買ってホテルで乾杯。
8月1日(木)
朝食。食堂からは港と対岸の旧市街、山側の旧市街やブルーモスクが見える。
イスタンブールから西にマルマラ海沿いを走る。
休憩所でトルコ紅茶チャイを飲んでみる。(2リラ)ガラスの器がきれい。
toruko015_R.jpg
トルコ人は大好きで、一日何杯も飲むそうだ。イスタンブールから3時間30分ほど走っからカドゥキョイのレストランTROIA AGORAで昼食。鯖料理、中々美味しい。、日本から持ってきた調味料は要らなかった。1Fはショッピング店になっているが、皆高い。しばらく休んで出発。遠くにブルガリアの山並みが見える。真直ぐ行けばギリシャに向かう道を曲がりフェリー乗り場方向へ。道沿いにはひまわりの花が栽培された畑が続き黄色がきれい。toruko014_R.jpg
ゲソボル港からフェリーにのりダーダネルス海峡を渡り、アジア側のラプセキ港へ。エーゲ海沿いの道をトロイに向かう。エーゲ海の藍色が物凄くきれい。松林も多く、ここで取れたマツタケが日本に輸出されているという。またトマトも栽培されておりこれも日本へ輸出されている。
toruko016_R.jpg
トロイ遺跡は、何にもないところで、古い甕管やレンガの壁の跡があるだけ。世界遺産になっているが、都市が重層的に重なっており、発掘にはまだずっと長く掛かるとのこと。
toruko017_R.jpg
カディールさんは、コペンハーゲンの人魚姫などの世界の三大がっかりの一つだと説明。ちなみに日本の三大がっかりは札幌時計台などという。ドイツ人のシュリーマンが宝石を発掘し、それをドイツに持っていってしまって、今はロシアにあるという。シュリーマンは考古学者ではなく、発掘泥棒だそうだ。学者なら宝石と同時に発掘された土器等を保存するはずだがそれは捨ててしまっている。トロイの木馬を再現しているが、現在のトロイは海から遥かに遠く、神話が信じられない。ここで冠の一部が欠けた石造りのマリア像を買う。(5トルコリラ)
遺跡を跡にエーゲ海沿いをリゾート地アイワルクへ。エーゲ海の藍色と山の緑、赤い屋根の家並みがきれい。
toruko018_R.jpg
toruko019_R.jpg
ホテルはグランドテミゼルホテル。
夕食はバイキングで美味しい。
海は、日没で冷たく、ホテルのプールでひと泳ぎ。時間が遅いので泳いでいるのは我々のツアーの一行のみ。ライトで照らされた青い水面で泳ぐのは最高。一泳ぎ後、プールサイドのチェアに腰掛、フールサイドでの演奏を聞きながらビールで乾杯。天の川が見えた。
8月2日(金)
朝エーゲ海沿いの海岸を散歩。いよいよエーゲ海と別れ、古代の遺跡が残るエフィソスへ。
途中革製品店を訪問。高くて何も変えなかったけれど、ファッションショーは面白かった。エフィソス到着。日差しが物凄く強い。素晴らしい遺跡、柱も床も。柱は鉛を留め具として高く積み上げているとのこと。
toruko020_R.jpg
toruko021_R.jpg
ケルスス図書館の遺跡もすばらしい。
toruko022_R.jpg
ただし全てバラバラになっていた遺跡の石材などを組み合わせ再生したものだという。確かに女神の像などが2000年以上前のまま残っていることはないだろう。
toruko023_R.jpg
大劇場は舞台で手を叩くと座席には大きく響き、凄い音響設計がされていることに関心。昼食はエフェソス遺跡近くのレストランAZIZIYEで。隣のショップで石鹸とかバラクリームを体験。その後パムッカレへ。クレオパトラの入浴したアンティークプールは、温泉プール。遺跡が転がる中、ロシアからの観光客が泳いでいた。
toruko024_R.jpg
次は石灰棚を散策。真っ白で雪のような石灰が蓄積した石の上を温泉水が流れており、温泉が溜まっているところは、素晴らしい青さ。
toruko025_R.jpg
ホテルはサーマルコロッセホテル。夕食のバイキングは美味しく。食後はプールで泳いだり、傍の泥風呂の間欠泉にはいったりした。その後プールサイド音楽演奏を聴きながら乾杯。ロシアのダンサーがベリーダンスをしていた。
8月3日(土)
コンヤに向けて出発。
山はコンヤに近づくにつれ緑だった山の緑がまばらになり、地面の緑の草も枯れてくる。所々にポプラの木がポッンポッンと立っている。日本では見かけない風景なので観光地ではないけれど見飽きない。
toruko026_R.jpg
昼食はアクシェヒルにあるレストランKIRAZLIBAHCE( キラズリバチェ)でトルコ風ピザ。傍の売店で、ガラスの目玉、ナザールボンジュウを買う。中にトルコ文字が書いてあり、カディールさんに聞くとメブラーナの格言だとのこと。コンヤに着き、インジュミナーレ新学校を見学後、メブラーナ博物館へ。コンヤはイスラムの聖地であり、宗教都市であるため、スカーフを被り、レインコートのような裾の長い服を着、ジャンパーみたいな上着をきた女性に加え、体全体を覆う黒系のチャードルを被った女性も多い。
toruko027_R.jpg
メブラーナ博物館は、緑色のタイルで覆われた霊廟が特徴で、宗教者メブラーナが祭られている。構内には、イスラムの歴史を示す文物が展示され、メブラーナのあごひげが祭られていた。
toruko028_R.jpg
見学を終えて、ホテルリクソスへ。豪華な近代的な高層ホテル。入るときにトルコのお菓子ロクムをくれた。地下1階のレストランで食事をしその後、近くの探索。スーパーでアーモンドやナッツ、チョコレートを、屋台でシルクのスカーフなどを買う。ホテルに戻り地下のスポーツジムで水泳。スカッシュもやってみた。
8月4日(日)
カッパドキアに向けて出発。
真直ぐな道路を進む。これが昔のシルクロードという。カディールさんからシルクロードの終点はと訪ねられた。皆中国の長安と答えたら間違い、奈良が終点だそうだ。一人だけ社会の先生のKさんだけが正解だった。回りは乾いた岩山で枯れた牧草地に羊が群れている。スルタンハンのキャラバンサライという昔隊商が休息を取った宿を訪問。細かい石工細工が施された城壁に囲まれている。3リラ払って入場した。中庭がある二階建ての建築物で、1階は取引所、倉庫、厩、管理人や使用人の住居にあてられ、2階は客人である隊商の商人たちの宿泊施設となっていたそうだ。今では鳩の巣となっていた。
toruko029_R.jpg
更に東に進む、遠くに高い山々が見えるようになる。
toruko031_R.jpg
ハッサン山(3268m)、エルジェス山 (3916m)、ギュルル山。ノアの箱舟の伝説の山は、アララト山ではなく、ハッサン山だとか。エルジェス山 は、富士山によく似た山なので「トルコの富士山」と呼ばれることもあるのだとか。
toruko032_R.jpg
数億年前にこの山々が噴火し、火山灰、溶岩が堆積、長い間を経て、カッパドキアの奇岩を作り上げたという。カッパドキアに近づくにつれ、奇岩が見えてくる。キノコ岩、ラクダ岩などを見学後、特別に洞窟に住む一般家庭を訪問させてもらうことになった。夫婦と娘二人、息子一人の5人家族。洞窟内は広く、トルコ絨毯を敷き、照明や電化製品も完備している。窓もあり夏は涼しく冬は暖かく住み心地はよさそうだ。電気やテレビケーブルの配線や額を岩に取り付けてある。ただし勝手に岩をいじったり、掘ったりしてはいけないそうだ。
toruko033_R.jpg
洞窟での暮らしを質問形式で教えてもらい最後に全員で記念写真を撮った。絨毯工場を見学後、洞窟レストラン「Bore Restaurant」で、川マスの塩焼き料理で食事。
toruko034_R.jpg隣のお土産物店で買い物。シャルバルというモンペのような履物を着て見せてくれたが、買わず、鍋敷購入。帰国後、トルコ旅行をした娘から、今着ていて旦那も喜んで着ており、欲しかったとのこと。残念。
食後トルコ石の宝石店を訪れたあとカイマルク地下都市探検し、奇岩が立ち並ぶパシャバー渓谷、デブレント峡谷へ。
toruko035_R.jpg
奇岩に上り、洞窟などを探索後、アヴァノスへ。川沿いの洒落たMADCカフェでアイスクリームを食べた後、吊り橋を渡りアヴァノス中心街を見学。
toruko036_R.jpg
ここは陶芸の街のようだ。Mさんはここの陶芸屋でワイン用陶器を購入。散策後近くのダブルツリーバイヒルトンアヴァノスに宿泊。夕食もバイキング。寿司があったのにはビックリ。
8月5日(月)
朝5時起きで、カッパドキアバルーンツアーに参加。
真っ暗な中を、バスでバルーン乗り場へ。乗り場には現地の人に混じって日本人の女の子がツアーの説明をしてくれる。一人で旅をして来てそのままここで働くことにしたとのこと。気球をバナーで暖めているうちに夜が明けてくる。
一つの気球の乗員は20人くらい。カゴに足をかけて気球に乗りこむ。はじめにパイロットから着地時の体勢についての説明を受け、実際にみんなで着地ポーズの練習をしてから出発。フワーッと気球が浮き上がる。他の気球も続々と上がりはじめるのを気球の上から見渡す。パイロットの操縦で気球は上下に浮遊しながらカッパドキアの奇岩群を旋回していく。toruko037_R.jpg
遠くにはエルジェス山が見え、夜明けで赤っぽい景色。約1時間のフライト。
toruko038_R.jpg
toruko039_R.jpg
パイロットは運転中常に無線で地上スタッフと連絡を取り合り、着陸地点に近づくにつれ、地上を気球回収車とバスが追いかけて来るのが見える。着地、結構な衝撃。着陸地点にはスタッフが待機していて素早く片付けに取りかかる。着陸後はシャンパンで乾杯!
8:00 ホテルに戻って朝食
食後陶器のお店に寄った後、カッパドキア岩窟群観光。最初にギョメレ野外博物館。toruko041_R.jpg
奇岩の中に多くの岩窟があり、岩窟には迫害から逃れ定住したキリスト教徒が造った岩窟教会がある。教会の絵は、ブルーベリーの実で描いたという。入ってすぐ右手には「聖バジル教会」が現れる。すべてが岩をくり抜いて造った教会であり,外からは岩なのか建物なのかはわからないが,入り口があり,そこから入って初めて教会とわかる。
続いて「リンゴの教会」、「聖バルバラ教会」、「蛇の教会」最後に暗やみの教会と順番にめぐり、入って来た入り口の方向かう。よくもまあこれだけのものをつくったものだと感心。
toruko042_R.jpg
toruko043_R.jpg入り口に民族衣装を着た娘さんがいる。何の衣装か尋ねたらオスマントルコの衣装だとのこと。写真を写そうとしたらいけないというのでこっそり写した。
toruko040_R.jpg
入り口にあるお店でお客と一緒にスルタンの格好で写真を写すモデルのようだ。またその近くで伸びるトルコアイスクリームを購入。ガイドさんは一番美味しいアイスだと説明してくれた。
次にギョレメの白い岩壁が谷一体に広がったパノラマを見ながら、ウチヒサールへ。
toruko044_R.jpg
toruko045_R.jpg
ここは昔の要塞、今はホテルとなっており頂上からは360度のパノラマが一望できるそうだ。登っている人を遠くから眺める。次にアメリカのグランドキャニオンのような風景が一望できるローズバレーに向かう。カッパドキアの峡谷や遠くにはエルジェス山が一望できる。素晴らしい景色だ。
toruko046_R.jpg
toruko047_R.jpgtoruko048_R.jpg
toruko049_R.jpg
toruko050_R.jpg
昼食は、ネブシェヒル市の東の郊外、ギョレメ地区の南西部エリアにあるホテルGOREME KAYA OTELのレストランで取った。
toruko051_R.jpg
約200年前に建築された伝統的なカッパドキア様式の建物。階段を登りベランダの食堂へ。正面には岩窟住宅が点在している。肉のシュチュウは美味しかった。
toruko052_R.jpg
食事を終えてアンカラへ。
アンカラ城をバスから降りて撮影。
toruko054_R.jpg
アンカラ市内に入る。市内の中心部は発掘・整備作業をしており、今後世界遺産に登録されるそうだ。ヒッタイトの彫刻のある付近を曲がり、スルメアンカラホテルに入る。古い落ち着いたホテルだ。ホテルのレストランで夕食を取った後、ホテル周辺の散策に出かけた。大通りに出て、最高裁判所方面に行く。音楽家の銅像の当たりまで行き引き返す。途中でMさんは安物の時計を買う。私もトルコの月と狼がデザインされている時計を連られて買う。10リラ。Mさんの時計は直ぐに壊れあわてて
交換に行く。笑っていた私の時計も結局3日後には壊れた。まったく無駄遣い。途中で反政府デモのアタチュルクの肖像を書いた旗を持った人と会い写真撮影。
toruko055_R.jpg
何か話しかけられたが、サッパリ。
ホテルに戻り地下のプールへ。古い円形のプールで外周は25m程、ただし2m以上の深さがある。オランダ人のビジネスマンも泳ぎにき、会話をかわした。
今日もビールで乾杯。
8月6日(火)
ホテルを出発。アタチュルク廟を外側から見て、イスタンブールへ450㎞。首都であり落ち着いた日本でもあるビルが多い。市内を抜けるとまた岩肌が露出した山々となるがイスタンブールに近づくにつれ山は緑に被われるように、牧場も緑が増えてくる。羊や牛が放牧されている。途中の湖の辺のレストランで休息。toruko056_R.jpg
景色は良いのだが電線が邪魔している。
イスタンブールに近づくと建物が多くなり、都市になってくる。ボスポラス海峡が見えてくる。海の周りはリゾートとなっており、民家の赤い屋根がきれいだ。アジアとヨーロッパを結ぶボスポラス大橋を渡る。
toruko057_R.jpg
ボスポラス海峡をむすぶ第二ボスポラス橋が見える。日本の企業連合が作った橋だそうだ。新市街の海沿いの道を走る。海事博物館、ドルマハチェ宮殿を脇を通り、ガラタ橋を渡りトプカプ宮殿の近くのボスポラス海峡沿い、海の見える場所にあるレストランSUR BALIKでドネルケバブの昼食。
食後ブルーモスクへ。
toruko058_R.jpg
青いイズミニックタイルがすばらしい。中の礼拝堂のイスラム模様も素晴らしい。
toruko059_R.jpg
見学後隣の公園を散策。ブルーモスクの隣の偉大な建築物アヤソフィアは外から見学。
toruko060_R.jpg
見学後、とっても早過ぎる夕食として海沿いの鯖サンドの店へ。ラマダン明けで店が混むからとのことだがあまりに早いため、鯖サンドはパッケージに入れて持ち帰り。そのままホテルレガシー・オットマンに。先ず近くのエジプシャンバザールに買い物に、様々な店がアーケード内にある。
toruko061_R.jpg
toruko062_R.jpg
トルコの人は光物が好きなのか光り輝くアーケード街だ。食器や装飾品などのお土産ものが多い。ティーシャツを購入。アーケード街にも色々な店が並ぶ。トルコの人は写真に撮られるのが好きだ。カメラを向けても怒られない。撮ってくれと言う人もいる。
ただし黒人だけは別。ここに限らずカメラを向けたら酷く怒られた。不法入国者が多いのかもしれない。
一度ホテルに帰り、カメラの充電をし夕方は、ガラタ橋を渡り新市街に歩いて行くこととする。
toruko063_R.jpg
橋の周辺は、露天商でにぎわっている。橋では、魚釣りをしている人が多い。
toruko064_R.jpg
鯖が釣れるそうだ。余り釣れていないが、釣れると橋の下でにあるレストランに売れるそうだ。二段になっている橋を降りて下側に行き、旧市街を眺める。男の人が写真を撮ってあげようと言って来る。初めは物取りかと用心したが、本当に親切で言って来る。言葉を交わし日本から来たと話すと一緒に写真を撮ろうといわれた。一緒に写真撮影。また階段を上がり橋を渡り新市街のケーブルカー乗り場カラキョイ駅へ。地下を走るケーブルカーで一駅新市街の大通りへの南端のテュネル駅へ。大通りは赤い電車は走っているが遊歩道になっている。
toruko065_R.jpg
古いヨーロッパ建築の一階は洒落たレストランになっておりヨーロッパの町並みだ。道脇にはストリートミュージシャンが楽器の演奏をしている。暗くなって来たので、タクスィム公園まで行くのは諦め引き返すことに。ケーブルカーのテュネル駅の横の石畳の坂の小道ガーリップデデ通りを下りていく。楽器店や美術品店、骨董店など芸術家の街だ。画家から油絵のコピーを購入。途中にガラタ塔があった。
toruko066_R.jpg
周りは飲食店。暗いので記念撮影だけしそのまま坂を下る。ガラタ橋に着く。橋からは対岸の旧市街のライトアップされたモスクがきれいに浮き上がる。橋下のレストラン街の傍をとおり橋を渡る。先ほどの露天でMさんは買い物。
ガラタ橋の海岸のベンチに腰掛、パッケージに詰めたレストランの鯖料理をたべる。遠くには、色々な光でライトアップされたボスポラス大橋が見える。食べ終わってホテルへ。
8月7日(水)
今日でトルコとはお別れだ。
朝おきて直ぐ、近くのイエニ・ジャーミィのモスクに出かけた。
toruko070_R.jpg信者が静かにお祈りをしている。また男の人から話しかけられ日本人というと一緒に写真を撮ろうと言われる。本当に親日的な国だ。
朝食後、ホテルから見える風景を撮り終わり、アヤソフィアへ。
toruko077_R.jpg
toruko078_R.jpg
近くの電停から電車に乗り坂道を上がる。アヤソィア、この建物は537年に教会として建設され、916年間は教会に、その後の1934年までの481年はモスクとして使われ、1935年からは博物館になっている。
toruko079_R.jpg
中はキリストの絵とイスラムの装飾が一体となっている。イスラムは現在は過激派テロのせいで危険な宗教と思われているが、本来は優しい宗教だそうだ。キリスト像などを漆喰で覆っただけなのではがせば下の絵が出てきた。キリスト教徒ならば破壊していたとのことだ。十字軍は残虐の限りをつくしたそうだ。
toruko080_R.jpg
見学を終わり坂道を少し下り再び電車に乗り、集合場所のエジプシャンバザールの前へ。バスにのりイスタンブール空港へ。長いと思っていた10日間のトルコ旅行は終わり。エデイファド航空に搭乗、アブダビで乗り換え北京経由で無事中部国際

nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

江南、上海旅行 [中国旅行]

長らくブログ作成を休んでいたが、友人からの要望に応えて旅行記をまとめて3件アップすることにした。
平成25年6月15日今回も友人のMさんと中国江南へ旅行することになった。旅行社はトラピックス。
今回は、夕方出発、余裕を持って中部国際へ。
上海へ到着後、バスでそのまま杭州へ2時間。ツアー参加者は20人。男12人女8人。ガイド康さんは大阪工業大学で勉強したそうで日本にも親戚がいるそうだ。ホテルは杭州海外海百納大酒店。展示会をするホテルのようで、秋冬衣料の展示会の準備をしており、廊下はラッカーの臭いがする。先ずはホテルの傍のコンビにでビールを買って乾杯。
二日目
杭州市内をざっと見学。運河が多い。この風景は江南地方ではどこでも普通に見られる風景のようだ。
kounan010_R.jpg
見学後紹興へ。
紹興到着後、魯迅の生家を見学。
kounan011_R.jpg
kounan012_R.jpg
貧乏な家庭で育ったというが、上流社会の中の貧乏。本も学校にも行けない極貧とは大違い。立派な建物で席が金持ちの子供とは差別されている程度。やはり運河があり船に乗れる。
途中で紹興酒の製造工場を見学、甕に封印し、何年も寝かせるそうだ。紹興酒の年代別の試飲があった。私は紹興酒自体が好きでないので、違いがわからなかった。茶色の甕に白い土で封印しているのを販売時には赤で彩色している。甕だけ記念品として欲しい。
kounan013_R.jpg
その後安昌古鎮を見学。古鎮とは、古い街並みの残る風情ある町のことで、ここは日本のツアーでは余り寄らないところだそうだ。
kounan014_R.jpg
ここも運河の周りに住居がある。観光地化がまだされておらず、俗化しておらず住民の生活そのものが見られる。
kounan015_R.jpg
その後杭州へ緑の多い町で湖を越えたところにある六和塔を山の下から見学。
kounan016_R.jpg
ホテル杭州海外海百納大酒店へ。
夜Mさんが足つぼマッサージをしたいというので場所探索に付き合い、街を探索。上運河を渡り中心街に入ると少しゴミゴミしてくる。Mさんは、招き猫の置いてある店が気に入りそのまま店へ。私はそのままホテルへ
三日目(6月17日)
杭州の西湖を見学。
中国の1元のデザインにもなっている風光明媚なところだという。kounan017_R.jpg
遊覧船に乗ってのんびりと白堤と続く島へ。湖からは遠くに杭州の高層ビルが林立し結構いい景色。
対岸に上陸し、西冷印社を見学。印鑑はもう十分持っているので買わない。
楼外楼飯店で昼食後、鳥鎮へ。ここも運河回りに住居があるが、安昌古鎮とは違い、規模も大きく観光地化され整備されている。立派な金持ちの家の色々なベッドなど見る価値はある。
kounan018_R.jpg

見学後無錫美麗都大酒店へ。ホテルは中国人がよく泊まるホテルのようであった。
食後足裏マッサージ店を見つけに付近を散策。日本料理店で聞いたら親切に近くのビルまで案内してくれた。今日もビールで乾杯。
四日目(6月18日)
無錫の恵山古鎮へ。古い江南の町並みを再整備し、土産物や古物を売る店、茶館などが並んでいる。特別買いたくなるようなものはないが、昔の建物がユニークで、ぶらぶら見て回るだけで面白かった。
kounan019_R.jpg
kounan020_R.jpg
なお無錫とは、昔錫の産地だったが錫が取れなくなって、無錫といわれるようになったそうだ。
その後蠡湖(れいこ)公園LIHU PARKと呼ばれる最近できた市民公園に。観覧車などがあるが特にやることも見るところもなく、太湖の側で時間つぶし。
淡水真珠研究所を見学し隣接のレストランで食事。
太湖の蠡湖大橋を渡り長広渓国家城市湿地公園に寄り、太湖辺の三国志の三国城へ。
kounan022_R.jpg
kounan023_R.jpg
TV番組の三国志のセットを公園にしたところ。魏と蜀の軍隊の馬上の戦いのショーは楽しめた。
kounan024_R.jpg
ホテルに帰り、無錫中心街へ徒歩で出掛ける。スーパー「大潤発」RT-MARTを見学、大きなスーパー。亀やすっぽん、淡水魚、金魚も食用にするようだ。サンダルと果物、飲み物、お土産のクッキー等を購入。ライチは安くて旨かった。
ホテルに帰り、同じツアー客2人と計4人で足つぼマッサージ店へ。90分で充実。皆満足していた。でも私には特に効果はなかった。富山から来たおじさん人は、スマートフォンによる音声認識で日中翻訳し、マッサージ師を笑わせていた。
五日目(6月19日)
今日は雨模様。木涜古鎮へ着いて、傘を借り町並み見学。運河沿いの町で運河の横にお寺等が並んで建っている。どの町も印象が似ているので段々混同して来る。
kounan026_R.jpg
シルクの美術工芸品店(蘭莉園刺繍研究所)へ。刺繍で作った素晴らしい芸術品があるが全て高い。安いツアーなので、オプショナルツアーか買い物かどれかしないとツアーガイドに悪いと思っていたので、私は、運河風景を描いた刺繍美術を、同行の婦人は椿の刺繍図を二人ペア購入と値切って購入。併設のレストランで麺料理を食した後、蘇州へ。
夕食に蘇州料理を食べた後、14時頃ホテル蘇苑飯店に到着。豪華で大きくきれい。足つぼマッサージをする客のため自由時間があったので、周辺の市場を探索。大きな包丁で肉を切る人や販売台の上で寝ている人がいるなど市場は面白い。夕方四川料理を食べた後、金鶏湖公園や蘇州文化会館(蘇州版鳥の巣)を散策、湖を挟んだ蘇州の夜景がきれいだった。
kounan025_R.jpg
ホテル到着後、傘を買いに高速沿いの家楽福(カルフール)に。カルフールの入ったビルは潰れそうなゴーストビルだった。
六日目(6月20日)
除夜の鐘で有名な寒山寺を見学。立派なお寺だ。
kounan027_R.jpg
その後シルク研究所を訪問、布団、ファション衣類等の見学、従業員によるシルクドレスのファションショーを見学後3階のレストランで食事。
午後虎丘を散策。塔が傾いており東洋のピザの斜塔だそうだ。
kounan028_R.jpg
その後山塘街を散策。運河沿いの民家街。果物を買ったがまずかった。
kounan029_R.jpg
次は蘇州の世界遺産園林「藕園(ぐうえん)」を見学。清代金持ちの夫婦の隠居後の住居。
kounan030_R.jpg
周りの運河を旅客を乗せた船が歌を歌いながらのんびり漕いでいた。
kounan031_R.jpg
その後盤門(ばんもん)という蘇州城をぐるりと囲んでいた城門に。運河に大きな橋が架かっている。
kounan032_R.jpg
kounan034_R.jpg
kounan033_R.jpg
城内へは入れず外から見学。運河の辺の料理店で四川料理を食後、ホテルへ。ホテル到着後バスで蘇州繁華街へ。繁華街に着く前に文化市場バス亭というところで降りてしまい近くを散策し、徒歩でホテルに戻ることにする。
途中蘇州の街を囲む運河に掛かる橋の元で蘇州のナイトクルーズの船や電飾で彩られた街を見る。
kounan036_R.jpg
帰り道、Mさんは前日見つけていた足裏マッサージ店に入店。私はそのままホテルに。
七日目(6月21日)
上海へ出発。上海市内観光で、魯迅公園、魯迅記念館に立ち寄る。達筆で版画も優れている。東北大学の医学部へ留学もしている。土産店がありキーホルダだけ購入。
次に租界時代の欧風建築物が残る上海外灘散策。対岸には有名な高層ビル群が立ち並んでいる。
kounan037_R.jpg
昼食は日本料理。一人一人ご膳に載せて配る日本式。味は日本と変わらない。上海に近づくほど日本の味に近づくそうだ。その後茶芸館、寝具店に寄り徐家匯聖イグナチオ大聖堂(じょかかいせいイグナチオだいせいどう)を見学。古さは、神戸の教会などと変わらない。近くの都市計画に基づいて作られた都市公園に立ち寄り時間を過ごす。kounan038_R.jpg
夜食に上海料理を食べた後、ホテル美豪瑞登飯店へ。
その後外灘夜景と上海ヒルズ94階展望台見学へ。
kounan039_R.jpg
kounan040_R.jpg
外灘と上海ヒルズ間は上海外灘観光隧道を通る。専用の10人乗りの電車に乗り、窓に光の模様が浮き上がってタイムトンネルの中を走っているようで楽しい。
kounan041_R.jpg
上海ヒルズは現在は最も高いビルだが直ぐ隣に更に高いビルを建設している。高速エレベータで最上階に上がり外灘のライトアップされた租界時代の欧風建築物を見学。
kounan042_R.jpg
記念のキーホルダーを買って降りる。
そのままホテルへ
八日目(6月22日)
ホテルの周辺花の問屋街などを探索。
朝食後上海空港へ
今回の旅行で、ツアー客の中にとんでもない親子がいた。
最初に会ったのは、中部国際空港。カウンターに並んで上海の地図を見ていたら、子連れの女の人が私も上海に行くというと話しかけてきた。話してみたら優しい口調で同じツアー、先日は東南アジアに行ってきたそうだ。常に子連れで海外旅行をしている。学校はどうしてるのかなと思ったが、よほど金持ちなんだろう。子供は利発でよくしゃべり人懐こい。
 バス旅行は、長時間のため、皆一眠り。目的地に着くと突然子供がくずり出す。寝起きが悪いようだ。ホテルでの朝食。親子がおり、子供はソファーの上を飛び回っている。母親は全然注意しない。子供は、部屋に遊び行っていいかと慣れなれしく話してくる。引っ込み事案の子が多い中で、えらく世慣れた子だなあ。食事になると、子供はおかずをとる順番を仕切るような態度をする。ずうずうしい。皆大人だから不快に思っても何も言わない。同行のMさんが母親が、ずっとツアー客の一人旅の若い女性をにらみつけているから見てみろと囁く。若い女性は、バスで男の子の相手をしていたのに何故だろう。後で尋ねてみたら話し相手に疲れたので、もう止めようと言ったら、その後睨まれるようになったそうだ。同行客もガイドさんも皆、この親子のことを気づき始めた。母親はガイドから聞いた旅行情報をA4のメモ用紙に細かく付けていた。教育熱心な親だなと思っていたが、その中に、死ねなど若い女性を、誹謗中傷する言葉や呪う言葉、勾玉マークを頻繁に書いている。トイレなど席を外した時、見ていたら子供がそっとその前に立ち、隠しにくる。母親を守っているようだ。子供がおかしいのではなく母親がおかしい。子供は相変わらず、他の旅行客の部屋に行っても良いか。中国から帰ったら家に遊びに行って良いか聞いてくる。皆気持ち悪がって当然教えない。おばさん達は優しいので一応子供の相手だけはする。バス中でも母親は、若い女性を睨み付けている。皆女の子を守るため、食事のテーブルが別になるようにしたり、旅行先でもガードするようになった。楽しい旅行でこんなことは初めてだ。子供も旅行で学校を良く休むようだし、クラスでは上手くいかないだろう。特定の人の差別するつもりはないが、嫌われる人は本人に問題があることが多いようだ。日数が短いため事件は起きず何事もなく無事ツアーは終わった。

リンクページの作成 [行政書士の仕事]

行政書士の仕事を始めて、もう直ぐ一年。予想通り仕事は少ない。2年目からは仕事を増やそう看板を作ったり、ホームページを作ったりしています。
今日は、リンクページを作りましたのでその紹介。簡単に新聞記事やテレビ記事、youtube、図書館の蔵書調査、体育施設などの予約ページにアクセスできるようにしました。
自分自身が暇な時、見ている内容が中心です。スマートフォンでも、よく簡単に情報にアクセスできます。新聞記事、図書館の蔵書検索、体育施設の予約など、主に愛知県内の人が対象ですが興味があれば見て、利用してください。
http://benrioffice.com/link/

厦門旅行 [中国旅行]

2011年11月25日(金)~28日(月)
前回6月に続き今回で4度目となるテニス仲間のMさんと3泊4日の中国厦門に出掛けた。最近中国旅行が続いている。旅行会社は、阪急トラピックス。Mさんから誘いが掛かり、世界不思議発見で世界遺産の土楼が近くにあり、また厦門は、経済特区の街で綺麗なエキゾチックな街と紹介されていたので、一緒に行くことにした。

-11月25日(金)・晴れ 16°~22°- 厦門泊
3泊4日の旅行の割には、集合時間が午後2時と遅い。高蔵寺駅12時2分の電車に乗り、13時15分にはセントレアに到着した。集合時間までラウンジで生ビールを飲んだ。飛行機は、「中国東方航空」でほぼ定刻16時に上海プートン空港に向け出発し、予定とおり上海プートン空港に17時40分頃到着した。国内線への乗り継ぎは、国際線の直ぐ横であったが、同じツアー客と見られる人のほとんどのが、国際線の出口方向にむかったので付いて行ったら、大回りとなってしまった。
さてアモイは日本からは行くのに不便なところで、今回は上海プートン空港での乗り継ぎが悪く、厦門空港に向かう飛行機の時刻は、上海プートン空港21時20分発で厦門空港着22時50分である。上海出発まで3時間もあるため、空港内をウロウロしてからロビーでビール飲んで時間をつぶしたが、無駄な待ち時間であった。
カップ麺を売っている。お湯を販売店で入れてくれるかと思ったら入れてくれない。トイレで入れろと言う。わからないので買うのは止めて、サンドイッチ。まあ美味しかった。その後、トイレの湯を確認に行く。湯はトイレの中ではなく、前や横にあった。中国の人たちがカップ麺に入れたりしていた。飲んでみたが正常。カップ麺を買えばよかった。
ところで中国の国内線は、遅れるのが当たり前で、上海プートン空港から飛び立ったのが、約1時間遅れの22時過ぎであり、厦門空港着も次の日付けになっていた。名古屋からの旅行客25名は、送迎バスに乗った。男一人旅行が3人、女二人旅行が3組6人、男二人旅行が僕ら含めて2組4人、老夫婦6組12人の25名である。バスの中で両替。1万円替えて760元であった。
ホテルまでの距離が短かったから良かったが、それでも午前1時近くになった。遅い到着と次の朝早いため寝酒もせずシャワーも浴びずに二人とも寝た。

-11月26日(土)・晴れ 16°~22°- 厦門泊
6時30分のモーニングコール、7時朝食、7時45分集合であったが、昨夜は遅かったため寝不足。朝食のバイキングは、あまり良くなかった。
バスに乗って、福建省北部の永定にある世界遺産「客家(ハッカ)土楼」に向けて片道約3時間、200Km走行した。近いといっても、名古屋に泊まって、白川郷へ日帰りでいくよりももっと遠い。中国は広いので、地理的な感覚が狂ってしまう。
中国の人口は、94%が漢民族で占められている。土楼に住んでいた客家(ハッカ)人も漢民族である。客家人は、600万人いるそうだ。土楼は、目的地に就くまでもいくつか合ったが最も規模の大きいのが永定にある土桜のようだ。土楼の形は円形やら、正方形やら色々あるが、見学したのは、300年前と600年前に建てられた永定の円形土楼、方形土楼である。600年前に建てられた土楼は、もう人は住んでいない。
アモイ(000).jpg
ami(002).jpg
300年前に建てられた土楼は、土産物屋となって現在も住んで生活している。僕は、ここで石作りの龍の置くものを買った。お湯を掛けると緑色がピンクに変色する。このあたりにしかない石だそうだ。来年は辰年で、玄関の飾りが欲しかったので調度良かった。20元。この石で作った一番多い置物は、カエルがお金を加えるもの。商売繁盛だそうだ。でも一寸グロテスク。で龍を購入。後土楼の中で油へを書いている画家がいた。上手い絵なのでスモールサイズの土楼が風景となっている絵を購入。Mさんと二人で買うことにし、額つきで20割引で100元ほどにまけさせた。時間がなかったので、絵に画家の署名がいなかったことに気がつかず、画家の名前がわからない。残念
さて円形土楼は、珍しいとの事で、土楼の内に30室から50室あるそうである。「客家(ハッカ)土楼」が世界遺産になったのは、3年前である。土を蜜を混ぜて固めて壁を作るそうである。外からの攻撃に対抗するため、壁に鉄砲穴があるそうだが2階以上には上れず、確認はできず。ここに住んでいる人は、日に焼けた農民のようで、ベトナム人のような感じで漢民族のようには見えなかった。
ami(003).jpg
ami(004).jpg
厦門から高速道路で行ったのだが、夜の1時に寝て朝6時起きなので、途中はずっと寝ていた。高速道路が未だ未完成なのに平気でこんなに長距離を走行させるのは、いかにも中国らしい。永定に向かう途中は、バナナ畑が一杯であった。この地域の名産としては、ウーロン茶の鉄観音茶と柿だそうである。客家土楼は、標高400Mにある。この辺りは、農耕地帯であり、米は、二毛作。10年前の中国農村人口は全人口の70%であったのが、今は半数の48%となったらしい。
昼食は土楼近くの小さな食堂でこの地方の田舎料理・客家料理で味が薄く油濃くない田舎料理であった。あまり上手くはなかった。まだ観光地としては開発されていないので素朴な感じ。中国人の観光客も大勢来ていた。
今回の添乗員は、黄(こう)さんというとても人の良い角刈りの男性。オプションを無理押ししないし、土産物も売らないし、写真も撮らない我々にとってはとても好都合の人であった。
難をいえば、出発時にあまり数を数えない事とバスに乗って直ぐ大切な事項やら説明をする事である。
次に厦門に戻る前に漳州 ( ショウシュウ )に寄った。ここは、福建省第4の都市で人口60万人。厦門の西側に位置し厦門まで60Kmである。古い街路に連れて行かれた。道路と店と車と自転車、歩行者がごっちゃになった古い町並みは、日本の戦後間もない映画always三丁目の夕日の舞台となった頃の町並みのようで懐かしく感じた。
アモイ(007).jpg
ami(006).jpg

ami(007).jpg

漳州の古街散策なので、露店街があるかと期待したが、何も無かった。古い町には、まるで老人会の集まりと思えるように多くの老人がマージャンしたり、駄弁ッたりボーとしたりしていた。
公園では大声で老人やおばちゃんたちが歌っていたようだ。厦門に戻る途中、茶屋に寄った。中国には何回も来ている人たちなのでもう買う人はいないと思ったが誰かがかって助かった。
厦門は中国語で「シャーメン」と読む。厦門の言語は、台湾方言らしい。厦門の海岸線3Km海上には台湾領となる金門島がうっすらと見えた。
厦門は31年前に中国6ケ所の経済特区のうちの一つとなり大発展した。人口も8万人から100万人となり大成長した。マンションは、30万円から3000万円に大高騰したとのことだ。
厦門は福建省(3500万人)で第3番目の人口である。福州(省都)・泉州・厦門・漳州の順である。ちなみに、中国で一番多い人口の省は、広東省である。外国人向けホテルが86件あり、内5つ星が18件もある。
昨年、厦門に訪れた観光客は2300万人で海南島に次いで中国第2位の観光街であるそうだ。市内のタクシーは、初乗り3Km以内7元でバスはどこでも1元。

厦門は、島街で4本の橋と2つの海底トンネルで結ばれている、とても裕福で綺麗な街である。中でも、16年前に完成し厦門港を渡る6Kmのつり橋からの眺めは、最高に素晴らしかった。
また、一周38Kmある外周道路は、海に面しており景観す晴らしく、夜はライトアップされて更に魅力アップになるらしい。新年には毎年この道路を使用して「厦門国際マラソン」が開催されている。厦門は全体的にマカオに似た雰囲気である。
厦門港は、中国第6番目の港街である。石材の輸出が多いそうである。また、華僑の「ふるさと」である。福建省出身の華僑は、1200万人で、内、厦門は出身の華僑は、300万人いるそうだ。厦門は、住民皆とても裕福に見える。あれ買え、これ買えとも言わないし、押し売りもないし、中国特有の駅前に労務者が溢れている様子もなく、これまで見てきた中国の中では一番の裕福で「脱中国」の街である。
中山公園という名前は、中国のどこにでも付けられる名前である。余程孫文は、中国の大大英雄なのであろう。厦門の市木は、紅い花が咲く「鳳凰ちゅう」という木で街路樹になって、そこら中にある。
ami(020).jpg
夕食は、福建料理であったが、このほうが上手かった。ホテルは、厦門駅前まで5分にある「厦門華夏大酒店」で一応4つ星だがどう見ても3つ星だろう。駅前で便利である事とアメリカのウォールマーケーットもあり、直ぐ横にもスーパーもあり賑やかである立地条件良好のホテルであった。みやげにしようとココナッツ餅を6元で売っていたので買ってみた。ココナッツの味がして珍しく上手かった。ここでビールとつまみ、果物を買って一度ホテルに戻り、再度、露店街をみつけつつウォールマーケーットやスーパー、Mさんが是非行きたいとガイドに教えて貰ったマッサァージ店を偵察した。なお、露店街はなかった。
ホテルに戻ってシャワー浴びていつものようにMさんと、お疲れ様と缶ビールを飲んで寝た。昨晩遅っかた事と疲れで直ぐ熟睡したようだ。
-11月27日(日)・晴れ 17°~23°- 厦門泊
7時モーニングコール、8時30分集合で少しゆっくりの出発。朝食のバイキングは今ひとつ。
本日の行程は、「コロンス島」観光と華僑の陳氏が創設した「集美学村」、明時代創建の「南普陀寺」、「厦門第八菜市場」等である。
コロンス島には、フェリーで渡った。
ami(009).jpg朝早いのに観光の人・人・人で超満員。10分程で直ぐに到着。迷子になると大変な込み具合。コロンス島は、12万人住んでいるが、車は1台もなく歩きか自転車移動である。
仕事する人は、厦門へフェリーで渡るらしい。コロンス島は、1904年に日本・フランス・イギリスの共同租界になった。街並みも厦門同様全体的にマカオに似た雰囲気である。
シンボル的な「日光岩」と明時代の英雄で母親が日本人の「鄭成功」の銅像は、遠くから眺めただけでだった。ピアノが有名とのことだが、それを思わす施設はなかった。
ami(010).jpg
ami(021).jpg
この島はサラーと1時間ほど見学しただけであった。自由時間にキーホルダーとこの地の果物、マンゴフルーツを買った。ライチのような白い実が甘い果物だった。
ami(011).jpg
アモイ(010).jpg午前中には、フェリー乗ってもう引き返した。
昼食は、田舎料理。昼食後、橋を渡って大陸側の町並みに入った。そこでアモイ出身のシンガポール華僑陳嘉庚が建てた美しい大学集美大学を見学。集美大学は観光地になっており、大学前の広い池を半周した。広州大学日本語学科の学生も見学にきていた。華僑の誇りのようだ。
ami(012).jpgami(013).jpg
なお以前の中国は、100人に1人しか大学に行けなかったらしい。しかし、現在大学生数20万人から、700万人の大学生数となったらしい。すごい増加数である。だから卒業しても仕事があるとは限らない。この大学は、5万人の生徒数である。創立時は、私立大学であったが、今は国立大学になっている。夏休みは、2ケ月もあるらしい。
その後、再度橋をわたり、アモイ島に渡り、絹布団の店へ。中国には何回も来ている人が多く。ほとんどの人は休憩室で駄弁っていた。話題は、現地で始めて国内空港使用料と国内線の燃油代360元とられたこと。今回の旅行は、高くついたようだ。
その後「南普陀寺」へ。「南普陀寺」は、福建省で一番古く大きい寺だそうだ。668年に創られたが、何度も創り替えられて現在の寺は明時代創建のものらしい。山の上に奥の院があったがそこまでは上れなかった。山道は大きな岩がゴロゴロして珍しい風景であった。大きな岩の上で、お寺や市街を眺め写真をとり、直ぐ降りた。若い女の人が仏像を拝んでいた。ここも、人・人・人で超満員であった。
アモイ(015).jpg
ami(014).jpg
ami(015).jpg
ami(016).jpg
次に、介方路(かいほうろ)と呼ばれる路地中にある「厦門第八菜市場」にいった。
果物・魚介・肉類等の食べ物中心の大きな市場だった。はと・うさぎ・鶏類・亀類・わけの判らない魚類・わけの判らない肉類・ヘビも売っていた。雀は、その場でおばちゃんが頭を手でちょんぎり羽根をむしり裁いて売っていた。
ami(017).jpg

中国人は、何でも食べるのだ。肉の多さにはビックリ。この生肉全部売れるのだろうか?売れ残ったらどうするのだろうか?余分な心配をする。レストランの肉も鶏肉と思って食べているが実際何の肉か?疑問である。ここも人・人・人で超満員。
迷子になると帰れなくなる程大変な込み具合で皆の列を離れるのは、とても危険であった。
ami(018).jpg
ところで、中国人は、何故、所構わずよく「ツバ」をやたらに吐くのだろう。特に、男と中年以上の婦人。
今回もよく見かけた。オートバイに乗りながらも吐くのを目撃したが、(自分の体に付くのではと思えるのに)このマナーを改善しなければ先進国の仲間にはなれないだろう。
夕食後、ホテルに戻った。ホテル売店で、以前満州旅行でお茶屋さんで試飲のときに使っていたドリップ式の茶器を40元で売っていた。日本で探したが見つからない商品で是非手に入れたいと思っていた商品だ。Mさんは昨夜ガイドに教えて貰ったマッサァージ店に予約に行くというので、予約にいくのに付き合っい、帰りにウォルマートで、茶器を買いに寄った。売り場が見つからず、皿と書いてやっと教えてもらうことができた。16元で買えた。ちなみにお茶屋では200元、アモイ空港ロビーでは140元であった。ここでお土産に昨晩試食したココナッツ饅頭を買った。試食したのとはメーカーが違った。店員がこちらが良いと主張したから。その後Mさんは、マッサージに連れて行って欲しいといっていた女の人をつれにホテルに一度戻った。私は薬局を見つけたので、タイガーバームを買ってからホテルに戻った。タイガーバームとメンソレータムを売っているので、どちらが良いか店員に聞いたら絶対メンソレータムだと言い張る。面倒になってタイガーバームの最小サイズを買った。このタイガーバームはよく効く。足のひび割れが一発で直った。もっと大きいのを買えばよかった。ホテルに着いたがまだMさんは戻っていなかったので、ロビーでインターネットを操作してみた。自分のHPは見ることができたが、速度が遅くて、帰りの電車のyahoo時刻表は見れなかった。Mさんが帰って来たので部屋に入った。はじめ行くつもりだったり、中心街に行こうと思ったが時間がないので、アモイ駅の近くの地下街を見に行った。やはりガラクタ街はなくブランドものを売っていた。裕福になれば、もう安物やニセモノは買わなくなるようだ。
一方Mさんはマッサージにいった。1時間男1人、女2人・全身マッサージを70元ででき満足して帰ってきた。なお翌日聞いた話では、日曜日は一杯で予約は取れないと言われ、黄さんに連れられて行った同じ扶元堂マッサァージでは、黄さんに230元支払ったらしい。やはり、添乗員を通すと高いということである。ホテルへ戻ってシャワーを浴びていたら、Mさんも帰ってきたので、最後の夜をお疲れ様と缶ビールを3本づつ飲んで寝た。

-11月28日(月)・曇り 16°~22°
本日、帰国する日。朝早く帰るため1日ムダな日となる。6時30分モーニングコール、7時30分出発である。朝食は、ロビーで弁当を食べた。弁当といってもパン・ソーセージ・バナナと水。厦門の天気は、小雨が降るだろうとの予測であったが、意外と温かく小雨が降る様子もなく、空港まで直ぐに到着した。厦門の朝の風景は、いつもの中国の風景とは違っていた。路で露天の朝食をする姿は見受けなかったし、綺麗であった。みな、自宅で朝食する習慣になったのだろう?
それだけ、裕福な街であり、脱中国の一番手なんだろうと感じた。
空港で到着し搭乗手続きを済ませて、ほぼ定刻時間に飛行機に乗り込んだ。しかし、ここからが長かった。
来るときも同じように国内線は、相当遅れる。地方の空なんてがら空きなのに何を待っているのだろう?
離陸が遅れるよと中国語でアナウンスしている。初めての経験であるが、40分程待っていたら、離陸前に客室乗務員が飲み物と軽食を配り始めた。これは、相当待つなと覚悟して食べ出した。15分程経って、まだ、軽食等が全乗客に行き渡っていない時、突然エンジン音が大きく鳴り出した。客室乗務員も大慌てで配るのを止めて自分たちの席に戻った。と、同時にブォォォォォーーーーと全速力で離陸した。中国では、これが当たり前なのかなぁぁ。とにかく、無事上海に到着し、出国手続きをした。ところが、同じツアー客の2組がいなかった。1人旅のおじさんは、ギリギリに誰かに連れられて一緒になったが、一組夫婦は、見当たらなかった。多分、一旦外に出てしまったのだろう。でも、旅慣れているという情報だから、(確認はしていないが、)きっと、同じ飛行機に乗り込んだであろう。上海は、快晴であった。こうして、僕らは、セントレアに3時30分頃到着した。着いて、時間が早かったのでラウンジで生ビールを飲んだ。自宅に着いたのは、18時過ぎていた。

今回の25名ツアー客の旅行で知り合って特徴のある二人を簡単に綴ります。
・よくしゃべる知立市から1人で参加した「望月某」。
初日の上海乗り継ぎ時からやたらとくっついてきて、よくしゃべまくる男性。Mさんはきらっていた。私もうっとうしいなと思っていたが、Mさんが逃げてしまったので話しかけてきた。バスは前後になったので開放と思っていたら、後ろから話しかけられて参った。随分外国も旅行して、いつも、1人で参加しているようだ。いつも、わいわい騒いでいる割に、夜も含めて一人で行動しない慎重派で、気が小さい人なのだろう。よく、土産物を買っていた。母親とお兄さんに買うのだと言っていた。人は、良さそうな親思い、家族思いの人なんだろうけど、多分、奥さん子供いない独身者だろう。知立市では、有名人と言っていた。今は、辞めたが自宅でマッサァージ師をしていたらしい。随分、口で稼いだのだろう。今は、遊んで暮らしているのか?なああ
・津市から来た二人連れの女性。
一人は、二日目にこんな人居たっけ?と思ったくらいの厚化粧の女性。もう亡くなった化粧品会社の女社長「鈴木その子」女史ソックリの化粧とクレオパトラのような顔。お連れの人から察すると50歳代中盤か?
毎日、服はもちろんのこと、ジーンズまで替えていた。スタイルを気にしているのだろう。痩せているわりに胸はあった。最終日の朝、メガネをかけて厚化粧をとったクレオパトラさんは、別人であった。でも、この方が理知的で魅力があるのになああと思った。二人とも写真を撮ることが、大好きのようだ。
観光スポットのどこでも女子高生みたいにオーバーポーズをとって写していた。よく海外旅行に行くようで、おそらく二人とも現在独身で独り身を謳歌しているのであろう。

ゲットしたモノ:ココナッツ饅頭、龍の置物、油絵、ココナッツミルク、茶器、キーホルダ
        今回もあまり買うものがなかった。

大連・旅順・ハルピン・長春旅行 [中国旅行]

2011年6月17日(金)~21日(火)
昨年秋に行こうと計画していたが、尖閣諸島への中国の領海侵犯でやめていた大連・旅順・ハルピン・長春を訪れることにした。今回も、これで3度目となるテニス仲間のMさんと同行した。旅行会社は、JTBである。坂の上の雲の舞台であり、また満州国の地であり是非言ってみたいところだった。Mさんに話したところ大連・旅順は行ったことがあるが、ハルピン・長春は行っていないのでまた行ってもよいとのこと。直ぐに話がまとまった。旅行記をを綴る。

-6月17日(金)・晴れ 18°~28°-  大連泊
高蔵寺駅9時の電車に乗り、いつもの通りセントレアのラウンジで生ビールを飲んだ。飛行機は、「中国南方航空」でほぼ定刻に大連空港に向け出発し、予定とおり大連に2時に到着した。
名古屋からの旅行客18名は、バスに乗った。バスの中で両替。今回も1万円替えた。円高のおかげで770元になった。空港で替えた人は、735元と言っていた。添乗員は、「張建偉」(チョウケンイ)という桂林出身の人で、とても誠実でオプションの押し売りもせず真面目で好感が持てた。
僕ら以外は、明らかにお年寄りが多かった。男友達同士が3人、男の一人旅が1人、男4兄弟一組、夫婦が4組であった。迎えのバスで、戦前日本人が造った大和ホテル等のある中心地に下車観光。中心街にある中山広場近辺散策。中国はどこへいっても中山広場と名のつくところがあるが、これは孫文が日本へ留学していた時の日本名である。日本が永く大連を植民地としていたので市の中心地、中山広場の廻りは日本人の作った大和ホテル、銀行等建物が一杯あった。まるで博物館のようであった。また、満州鉄道本社ビルも当時のまま残っており立派な建物であり戦前の日本の街を観るようである。しかし、時代とともに壊されて新たな超高層ビルの近代的建物群に成り代わってきているのが現状である。大和ホテルの前のロータリーは、地下鉄工事をして囲いが張り巡らされていたため、周りの戦前の建物群が一部隠れてしまっていたのが残念であった。manshu(001).jpg
満州大連(001).jpg

この後、中山広場・旧日本人街に行った。旧日本人街は、2001年に中国政府が300億円投じて昔の建物を再現した。大きな屋敷ばかりで、まるで住宅展示場のようである。誰も住んでいなく観光用展示のみに造ったもので、凄い力の入れようだ。戦争当時の日本人街は、20万人いたそうである。ここにテニス仲間のTさんは、満鉄社員の子息として暮らしていたそうだ。結構いい暮らしをしていたらしい。
満州大連(003).jpg
大連は、市人口260万人で緯度は、仙台と同じ。水産が豊かで特にアワビが特産で「北方の真珠」及び「北方の香港」と呼ばれて、とてもエキゾチックな街並みである。街並みは、1890年代ロシアが旅順港を制覇して以来、フランスに似せて造られ、道路は放射線状になっている。平均気温は、23°位でとても住みやすく中国人の金持ちの避暑地となっている。また、日本の企業も多く進出しており、キャノン・東芝・日新製菓等大手企業が6万人ほど来ているらしい。
また大連は、リゾート地で多くの中国人が訪れかつ外国人も多くおり、物価は、中国でも上海・北京・深淵・広州についで5番目に物価の高い都市だそうだ。なお大連の会社員は、比較的高給取りであるが、それでも月給3千元(44000円)である。
交通渋滞解消のため地下鉄工事も来年8月の完成めざし急ピッチで進んでいる。僕らのホテルは、大連駅前のとても利便が良い所であった。市内見学を早く終えて、ホテルへ直行した。夕食まで1時間自由時間となった。僕らは、ホテルに荷物を置いてホテル前の地下街に入り冷えたビールを買って冷蔵庫に入れておいた。17時30分にホテル集合し海鮮料理を味わった。夕食後、別々に分かれて地下街、露天をブラついた。露天は大したことはなかったが、地下街は大連駅前の広場の下から道路をはさんで駅前の公園まで大変広いエリアであり、地下4階まであった。地下街をブラついてたが、主に女性ファッション用品が中心で、特に面白い特産品などなにもなかった。吉野家の牛丼が出店していた。公園まえでは、Mさんと待ち合わせホテルに戻った。Mさんはやはり時計屋を見つけて偽物のオメガ時計を買ったそうだ。見た目は凝っていたが、やはり直ぐ1日15分ほど遅れ出したそうだ。中国品は品質が問題だ。ホテルに戻りお互いシャワーを浴びてからお疲れ様と先ほど買った缶ビールで乾杯した。

-6月18日(土)・晴れ 18°~28°-  ハルピン泊
8時30分集合で比較的ゆっくりの出発であった。朝食は回転ラウンジでのバイキングであった。味は今ひとつ。
駅前は、高層ビル建設ラッシュ。朝、ホテルを出るとき結婚式の準備をしていた。大連(中国?)では、初婚の結婚式は、10時までに行うそうで、10時以降挙式する人は、ほとんど再婚だそうだ。本日の行程は、旅順博物館・旅順駅・旅順港・水師営会見所・203高地とショッピングである。博物館見学後、旅順港・水師営会見所に向けてバス旅行。大連駅前のホテルから車で1時間程で半島の先っぽの旅順の203高地入り口に着く。しかし、渋滞でかなり時間がかかった。
満州大連(004).jpg
昼食は、水師営会見所で旅順料理であった。旅順料理といっても、ほとんどいつもの中国料理でいろんな野菜を炒めた物が多く出た。ここへの観光客は日本人ばかりと思うが、中国人が食事にきていた。「203高地」の由来は、山の高さが「203M」だからの説が有力だが、一説には本当は206Mあったのだがあまりの激戦のために砲弾で削れて高さが3M低くなり「203高地」と呼ばれたという説があるらしい。いずれにしても、日本とソ連が旅順を確保しようと203高地で激しく戦争した地である。日露戦争は日本が勝利したことになっているが、「203高地」での死者数は日本が15000人、ソ連が5000人と日本はソ連の3倍の死者数を出した。食後戦争を終結をした会見所を見学。ここで全員の集合写真をとった。この会見所は、乃木将軍とステッセル中将が戦争を終わらせた水師衛会見所である。屋根にペンペン草が生えている農家の再現である。日本人は背が低いのでソ連人と調印する時、両国人の背高が合うように部屋の土間が少し高くなっている。「203高地」の駐車場について、頂上までは歩いて行く。かなりの急坂であった。歩くのが無理なお年寄りや足の不自由な人のため、専用車での運送する商売があった。たった数分で100元也。さすが中国人は何事も商売上手。 
その後旅順駅と旅順港を見学。旅順港の軍艦は、撮影すると軍隊が飛んでくるから撮影することなかれとガイドに言われた。が、Mさんはコッソリ撮影。7月1日に新聞等で賑わした旧ソ連製空母「ワリャーグ」かもしれない。
旅順から戻って、夕食、中国での食事は、いつも大きなレストランである。多くのいす・テーブルに多くの人がごった返して食べている。日本では、あまり見ない光景である。この雰囲気は、しいて言えば日本の結婚式の披露宴のようだ。日本のレストランはどちらかといえば個室に籠もり食事したがるが、大陸中国はあけっぴろげで賑やかに食べている。料理人等スタッフも大勢いる。なお東北地方は、サクランボが良く取れるのか、そこいらに目方売りのサクランボ売りが多くいた。バスまで売りに来たので買ってみたが中々旨かった。
満州大連(005).jpg
食後、空港に向かう。大渋滞であったが、途中で中山広場前を通ったので地下鉄工事の囲いで見えなかった建物もゆっくり見ることができた。大連空港からいよいよハルピンへ国内線で向かった。意外に時間が正確で21時30分には空港に着いて、ホテルには22時過ぎには着いた。当初、夜中に到着することを覚悟していたから嬉しかった。ホテルは、大連同様、ハルピンの駅前で非常に立地条件が良かった。大連と違うのは、ハルピンの駅前は、列車の始発駅のせいもあるが労務者で溢れかえっていた。時間が、予想外に早かったこと、駅前にあることで、到着後、Mさんと近くにビールを買いに行った。ホテルの近辺に「超市」と書かれたコンビニが一杯あった。ハルピンでは、省都の割にはコンビニが発展しておらず、日本でいうとホームにあるキヨスク店に果物を一緒に並べたような構えをしている。建物は粗末であった。
ホテルについて、シャワー浴びたら結構深夜になってしまったが、お疲れ様と缶ビールを2本づつ飲んで、少し紹興酒のような酒も味見してから寝た。

-6月19日(日)・晴れ 22°~34°-   ハルピン泊
昨晩は、少し夜更かししたが、7時モーニングコール、9時集合でゆっくりの出発で朝食。ホテル朝食は、あまり美味しくなかった。本日の行程は、黒龍江省博物館・聖ソフィア教会・スターリン公園・中央大街等である。
ハルピンは、人口1000万人の黒龍江省の省都で、緯度は、北海道稚内と同じ。標高は110Mで、少数民族が150万人暮らしているそうだ。夏の平均気温は、例年22°だが、この数日は異常な暑さである。冬の平均気温は、温暖化のせいか?-20°位だが、以前は、-40°であったらしい。
黒龍江省博物館は、旧デパートの2階で、この地方の歴史、文物等の展示をしてあったが大したものはなかった。
また聖ソフィア教会は、外見は立派だが、中の宗教設備は全て撤去されておりガランどうであった。代わりの戦前の街の風景写真が飾ってあった。結構日本人が進出していたらしい。いくつかは日本人の作った建物も残っているそうだ。
満州ハルピン(001).jpg街並みは、大連に比べると貧しそうに映った。大連の添乗員「張建偉」さんの他にハルピンでは、添乗員「陳」(ちん)さんが付いた。この人は、体がでかかった。満州民族だと言っていた。日本語は聞き辛いところがあったが、誠実そうであった。ハルピンも相変わらず車が多く渋滞だ。車が多くなり問題となるのは、・渋滞・駐車・環境の3つ。ハルピンでは、ナンバーの末尾番号の奇数・偶数で通行出来る日、時間帯を分ける対策を実施しているらしい。今の中国の軽自動車フュンダイ製は、30万円で買えるようになったらしい。これも車増加の原因の一つ。
ハルピンにも古い建物は、残っているがデパート等にほとんど再利用して使用している。土産は、ロシア民芸品が主である。一番の繁華街中央大街でもロシアショップが多くあった。ハルピン市内は、戦争中に防空壕があちこちにあったらしく、それを今地下鉄建設に利用している。
昼食は、東北料理であった。
午後は、松華江横にあるスターリン公園に行った。市民の憩いの場となっておりロシア人も多くいた。スターリン公園と名付けられているが、スターリンは一度も訪れていない。中ソ友好として名付けられただけである。時間が沢山あったため、陳さんは、松華江内にあるリゾート島「太陽島」に行くことを提案。行きは、船で、帰りはロープウエイでと提案。全員賛同し100元支払った。当然、自分で行けば船代金等は安いが、やむを得ないところ。さすが、デカイ中国だ。とても、松華江中州にある島とは思えない広さ・充実さだ。「太陽島」は、市民の避暑地として、飲み物・食べ物・マット等を持って渡り芝生に寝ころんだり、汚いけれど松華江で水浴を大勢楽しんでいる。
満州ハルピン(003).jpg太陽島の散策は、とても暑くツアー客老人達では体がもたなく文句が多く出た。休む所に窮した陳さんは100元取ったから悪いと思ったのか・・・庭園内の休憩所で皆にビールを振る舞った。
帰りは松華江を横断するロープウエイに乗り戻った。6人乗りで大河を一望出来てすばらしく見応えがあった。
満州ハルピン(002).jpg


その後一番の繁華街の中央大街に行ったが、ロシア風の建物が多く中々立派であった。
満州ハルピン(004).jpg夜食は、中央大街にあるロシア料理であった。雰囲気はとても良かったが、量は少なかった。Mさんはここで両替をして偽札を掴まされたようだ。
夕食後は、中央大街で解散させてほしいと頼んだが、まずホテルに戻すことがガイドの仕事と聞き入れなれなかった。JTBは堅い。やむを得ず、ホテルに戻って、Mさんと歩いて今来た場所へ散策に行った。
満州ハルピン(005).jpg本当に、ロシアショップが多いが店員は中国人であり、繁華街の大きな店で堂々とニセブランドを売っていることには驚いた。北京などの都市では露天でしか売っていないのだが。お土産やで、Mさんは、オメガをもう一つ買おうと交渉したが、交渉はまとまらなかった。下げる限度があるそうだ。2台買って安くなるのなら、私も買うと思ったが交渉は不成立。でも正解であった。桂林で買った時計も壊れたから、また使い物にならない時計を買うことになってしまう。ビルの合間で、地元の人は、ダンスをしたり、ビールや串焼きで大賑わい。串焼きは美味そうだったので食べたいと思ったが、一寸心配なので中止、替わりに皆が並んでいたアイスクリームを購入。美味かった。
満州ハルピン(006).jpg
満州ハルピン(008).jpg
満州ハルピン(009).jpg
満州ハルピン(007).jpg
行き帰り歩いて結構疲れてホテルに戻り、いつものように、シャワー浴びたら、お疲れ様と缶ビールを2本づつ飲んで、少し紹興酒のような酒も味見してから寝た。
なおハルピンのタクシーは、珍しかった。まず、最初の客は、運転手横に座る。続いて、乗り込んだ人が後ろに座る。二組は、同じ方面に行くのであり、料金も別々に取る仕組みだ。なんとも合理的なシステムでタクシー会社にとっては、とても優遇されてるように見える。国の施策らしい。
-6月20日(月)・晴れ 22°~32°-   長春泊
今日は、8時58分ハルピン発の高速列車に乗るため、6時30分モーニングコール、8時集合であった。
満州ハルピン(010).jpg本日の行程は、8時58分ハルピン発の高速列車で長春着10時30分・偽満皇宮博物館・偽満州国務院・旧関東軍司令部の見学である。朝食は、ホテルバイキング、昼食は、中華料理、夕食は、長春料理であった。ハルピン駅前広場は、朝も夜も労務者で溢れかえっている。夜の駅前は、安宿提供案内人が大きな声で呼び込みをしている。泊まれない人は、駅近辺で野宿をあちこちでしている。夏はまだ良いが、冬の零下何度の時はどうするのだろう。中国の省都でもこうであるように貧富の差は拡大するばかりだろう。
列車に乗るのにパスポートが必要なようだ。荷物をチェックされて入ったハルピン駅の待合室は人で一杯。列車は、北京行き2号車で、とても明るく日本の新幹線のようだった。日本の翼がモデルかと聴いたら、違うドイツの車両がモデルとのこと。時速250Kmというが、実際130Km位のスピードであった。列車内では中国人は、黒ソーセージやらキュウリやら、やたらによく食べしゃべりまくっている。中国人のマナーはあい変わらず悪い。
相席の人は同じツアーの男の人だったが、中国の土産はまずいとのことで話が合った。一度会社に買って行っても、誰も食べず何時までも残っているのでこっそりと自分で持ち帰ったことがあるそうだ。試食してから買わないと危ないが、中国には試食という習慣はないようだ。
満州ハルピン(011).jpg

長春駅は、とても大きく立派である。駅前広場は、ハルピン駅前同様人が多くいた。
大連の添乗員「張建偉」さんはずっと一緒で、長春からはハルピンの「陳」(ちん)さんから「王」(オウ)さんにかわった。この人はまじめすぎて、堅物との印象を受けた。長春は、戦前は「新京」と言われ、満州国新皇帝がいたところで、日本との関わりがとても強いところだ。
満州長春(001).jpg
満州長春(002).jpg
長春は、人口2700万人、市内人口730万人の吉林省の省都の大都市である。緯度は、北海道札幌市と同じで、仙台とは姉妹都市である。緑の木々がとても多くて、緑化率は、中国第一位だ。また、自動車の街でマツダと合弁会社の第一自動車の工場があるらしい。
長春駅から、15Kmの真っ直ぐな広い人民大街という通りがある。偽満皇宮博物館の見学は、2時間ほどであった。私はラストエンペラーの正妻婉容皇后゛わが名はエリザベス“のテレビドキュメントを見ていたので興味深かったが、一緒のツアーの老人たちは、歩くのは疲れた、休みたいといって文句をよく言った。ガイドに見たくない人は出口を教えて待たせておけば良いのにと言ったら、そうは行かないと怒りまじめ一筋の対応だった。
バスから旧満州国務院、関東軍司令部など満州帝国時代の建築群をみた。関東軍司令部は名古屋城をモデルに作った建物だそうだ。
満州長春(003).jpg
満州長春(004).jpg
中国は、韓国と違って植民地時代の建物や施設を保存し、昔の歴史をそのまま冷静に見ており、大した国だと感じ、また日本も立派な建物を建築していて良かったと思った。
みやげ物として天然ゴムの寝具を販売している会社の店ラテックスに行った。ここは前回広州で連れられた店と同じで広州にある工場で作っている枕やマットを売っている。寝転んでいたら、売り子がついて離れない。前回も見たものなので試しに高反発枕を一個だけ買ってみた。健康に良いというが、日本では低反発マクラしか売っていないのはなぜだろう。結構皆買っていた。使用感はかわらない。なんということはない。
テニス仲間のTさんも北京旅行して、マット、枕などを半額に割り引かせ十数万円で買ってきて全然良いと言っているが・・・・・・。
夕食は壁に漫画が書いてある面白い店で食べた。ここは美味しかった。店を出てからここでもさくらんぼを買った。
満州長春(005).jpg
満州長春(006).jpg
長春のホテル「長春中日友好会館」は中心地から離れていたが、一番綺麗で良かった。
ホテルに戻り近くのコンビニ(超市)に行きビールやザーサイ、つまみを買った。Mさんがレジでお金出したところ、20元札を返された。理由が判らず紙にメモしてもらったところ、どうも偽札らしい。確かに本物と見比べると直ぐ判る。中央にキンキラの縦線がない。20元札(300円)の偽札があるとは思わなかった。日本ならば大ニュースになるのに、中国では日常茶飯事なのだろう。偽札として警察の取締りの対象になるのだが、警察への連絡も特に何になかった。
夜は、Mさんと二人でマサージを頼んだ。最初はやる気もなかったが繁華街から遠く、行くところもないので験しにとやってみた。ガイドに頼むと高いが、自分たちで頼むと安い。丁度、ホテル内にあったので直接頼んだ。直ぐ、二人のマッサージ女史が部屋に現れた。二人ともとても若く可愛かった。二人ともよく笑いながら話をしていたが、マッサージとしては効いていなかった。痛くもなく、ツボもあまり押さえなく力も弱かった。最初は、頭のマッサージからで、その後、手・足・腹部・下向きから手・足・腰部・背部・首とやってもらったが確かに若い女性に生身で身体を触られている感触は、とても心地よく妙な快感はあったが、マッサージとしては身体が軽くなったとか気持ち良くなったという実感はなかった。一生懸命?してもらったので帰りに露天で買ったばかりのサクランボをあげた。彼女等が帰った後、いつものように、シャワー浴び、お疲れ様と缶ビールを飲んで、残った紹興酒のような酒も飲んで最後の夜を終えた。

-6月20日(火)・晴れ 22°~32°-
朝はとても早い時間帯の、5時15分モーニングコール、5時45分集合の6時出発であった。こんな早い出発は、初めてであった。さすがに眠い。朝食は、バスの中で弁当が出た。長春空港発8時発の「中国南方航空」でほぼ定刻に出発し、予定とおりセントレアに日本時間11時50分に到着した。早すぎで時間もあることからMさんと再びゴールドカード専門のラウンジに行き旅行帰りのお疲れビールを飲んで帰った。

その他、気づいた事を綴ります。
全日程を通じて、老人が文句をよく言う。暑いだの歩かせ過ぎだの、休ませろ、喉が渇いた等々。JTBに言わないとダメだとか。例せば
・顔がテニスのBさん似の一人で来ていた人、結構ガイドに文句言ってビールを出させていた
・顔と声が、僕の知り合いのHさん似の文句3兄弟、本当にいつもブツブツ文句たれていた。男3人の兄弟で旅行でとても素晴らしいことなのに絶えずガイドに文句言っていた。雰囲気悪くなる。
・ご主人が、どんなところでも奥様の一人写真を写している夫婦がいた。奥様もポーズ決めて撮られている。余程、自信があるのか?でも、奥さんの顔は、安酒屋のおかみ風である。ご主人に食事の時、写真の事を話したところ、奥様が怖いからと漏らした。本当かも?皆の前では、ニコニコしている奥様が、夫婦二人だけの小声の会話では、奥様がとても厳しい口調でご主人に文句を言っていた。でも、この夫婦夕食時にツアー客全員にご主人の造ったアクセサリーを配ってくれた既得な人である。謝謝。
今までの中国訪問どこでも感じたが非常に若者の姿が目立ち街自体に活気がみなぎって感じる。(中国は人口が多いから当然であるが)日本はと言えば中高年の叔父さん叔母さんお爺さんお婆さんばかりが目立つ。若者が多いということは嬉しい気分になる。心が弾む。ワクワクする。エネルギーを感じ更なる発展性を秘めている。日本はすぐ追いつかれそう。日本の若者はどこへ行ったのだろう。中国東北地方はいくら省都といっても貧富の差が激しく貧しい街と感じた。
案内人は、3人ともしつこくなくて嫌な思いもせず、まあまあのガイドさんであった。
市内は、どこも車の交通渋滞ばかり。交通ルールは、ないと同じ、ルールは守らない。まして、信号機も少なく運転者、通行人のマナー悪いこと大。道路横断はヒヤヒヤもの。
今回は、円高の影響で、人民元で1元=13円で日本人には良かった。

ゲットしたモノ:枕、さくらんぼ、だんだん買うものがなくなってきた。

nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

桂林・マカオ・広州旅行 [中国旅行]

7月、3月西安に一緒したMさんにどこか行かないか?と声をかけ、格安旅行ならばOKと返事を得た。候補地探し、マニラを提案したところ、マニラの観光開発はこれからなので、2回目の訪問となるが、桂林・広州+マカオでも良いとの返事だった。観光案内を見、8月末「阪急トラピックス」の桂林・広州+マカオ旅行をすることにした。Mさんとは前回一緒であったので気心と習性はある程度判っていたので安心していた。打ち合わせは、電車に乗る時間合わせのみであった。

-8月27日(金)晴れ-
家を6時に出て早い中央線に乗り、金山で名鉄に乗り換えて7時30分にセントレアへ。やはり、こんなに早い電車でも結構お客が乗っているのに驚いた。金山での乗り換えもスムーズに進んだ。空港の旅行カウンターは意外にすいており、すべてスムーズに進んだ。ここで、ラウンジで休憩。初めて利用したが、最近はみんなゴールドカードを覚えたらしく大勢利用していた。ゴールドカードも手頃に入れるようになったのだろう。朝早い飛行機で上海へ。飛行機は、「中国南方航空」でほぼ定刻に上海プートン空港に向け出発し、予定とおり到着した。上海で一旦降りて、入国手続きをして同じ飛行機に乗り込んで、やはり満席で広州へ飛んだ。上海まで2時間半、上海から広州は2時間の計4.5時間のフライトであった。広州着は、中国時間で15時で、17時30分の桂林行き「中国南方航空」の国内線に乗り換え、着いたのは17時30分であった。
到着して名古屋からの旅行客は27人、1台のバスに乗った。前回と同じで、僕ら以外の女性2人連れ、家族4人の親子連れ、男性3人連れ以外は全て中年老夫婦であった。案内人は、「付平」(フーヘイ)さんで40歳前後で、中国人としての誇り高き人であった。結構、商売気がある人であった。円高のせいで1元=12.5円で換金できた。
ホテル桂林豊裕国際大酒店は、4☆で一寸古びたホテルだが、比較的賑やかな所にあった。ホテルに着いて、近くへ散策。スーパーがあったのでビール(1本2元)を買い込んで冷蔵庫に入れた。しかし、相変わらず、冷えない冷蔵庫であった。中国はビールを冷やしては飲まないのか。中国の人々は、狭い部屋が嫌なのか、夜遅くてもフラフラと彷徨している。ホテルの近辺に何があるか目星付けてからホテルに戻り、お互いシャワーを浴びてからお疲れ様と缶ビールで乾杯した。今朝早かったのでお互い飲んで直ぐ眠りについた。

-8月28日(土)晴れ-
ホテルの朝のバイキング。ここは田舎のようだ。餅とかサツマイモや里芋の焼き芋とかがある。ここのバイキングは今ひとつ。バスで桂林り江下りの乗り場、竹江(ちくこう)に向かう。桂林は、地方都市なのに面積27809平方km、人口70万人。比較的大きい都市だ。観光客は、年1200万人訪れ内外国人観光客は、100万人でほとんど西洋人がメインらしい。すごい観光都市である。また、桂林は、少数民族が多い地域である。中国の9割以上は漢民族で、残り1割未満が26の少数民族であり、桂林にはその半数位の少数民族が住んでいるらしい。街路樹は、キンモクセイが多く、桂林の市花となっており、10月には見事な黄色の花が咲き誇るという。因みに桂とはキンモクセイのことだとのこと。竹江(ちくこう)から乗船し陽朔(ようさく)まで4時間乗船。墨絵の世界に酔いしれてた。独特の墨絵の風景は、大昔の海底だったところが隆起し、石灰岩層が雨により溶食され、無数の溝や鍾乳洞ができ、また陥没や侵食に、地殻変動による褶曲や断層も加わり長い年月を経て円錐状の峰が残るようになったところとのこと。魅了する景色である。
0003.jpg
0002.jpg
0001.jpg


この日は曇っており墨絵に近い風情。船は、3階建てで1Fは指定席、2Fはバイキングレストラン、3Fは展望である。ゆっくりのんびりと景色を堪能した。ところどころに、川遊びのポイントがあり多くの筏船が行き来しており皆夏のバカンスを楽しんでいるようであった。多くが、中国人の金持ち人種である。陽朔(ようさく)で下船し西街行くまでに千円、千円の少数民族の叔母さん達に出くわした。買うつもりがなかったが、とても笑顔の似合う若い人が居て、ハンカチは使えるので、ハンカチ・ポシェット等買ってしまった。

0005.jpg
0006.jpg
写真を撮ろうとすると上手く逃げられて、一枚も取ることができなかった。また、写真集はMさんと一緒に2冊買った。叔母さん達は一度買った人にはまた売りに来る。いらないと逃げ回ったが結局買う羽目に。口紅ケース12個にポショット多数。これどうすんだい。
ところで中国の大学入試は、全国統一試験。小中学校は、全て公立であったが、最近、金持ちが私立の小中学校へ入学させるようになり増えてきたらしい。私立校を基督校と言う。1年度は、9月から旧正月(1月末)で、2学期制で春休みはなくて、夏休み・冬休みがそれぞれ45日づつあるらしい。日本とチト違う。
桂林は、少数民族が多いから色んな動物を食べるらしい。家にいるネズミ・ヘビ・カエル・ハト等々。我々も知らずのうちに食べたかも?
帰途絵画を売るショップに立ち寄った。水彩画を眺めていたら店員が引っ付いて離れない。水墨画の話をしてくる。何とか売ろうとしてくる。お土産として何か買おうとは思っていたので、つい一枚山水画を300元ほどで買ってしまった。チワン族の女性画家が、描いたものらしいが後で調べても名前はネットでは見つからなかった。中国の少数民族対策に協力してしまった。さて桂林の主産業は、観光と農業である。工業は唯一ゴム製品。現地で取れる天然ゴムでできた高反発枕を展示したショールームへ案内された。説明者は日本人の技術者、日本のゴム発砲する技術で製品作り、中国と合弁でラテックスという会社をつくっているとのこと。もう、25年単身赴任していると言っていた。価格の高い高反発枕であったがなんと数人購入していた。
夜ビーフン料理を食べた。ここのビーフンは美味いが、日本と違って、太いうどんのようだ。朝、町で庶民がどんぶりで何か食べていたが、これだった。さて夕食後、オプショナルの夢幻漓江ショーは断って、露店街に行くことにした。市内中心部の中山北路テント街へはタクシーで。場所が分らないとのことでシェラトンホテルといったら判った。タクシーでホテルから片道15分程10元で行けた。ここは、大通りにあり、土日しか開かない市場。とても賑やか。露天街に油絵で桂林の風景を書いている店があったのでA3くらいの大きさのり江下りの秋景色を一枚購入150元、昨日買った水墨画よりもきれいでずっと良い。画家と一緒に写真に写る。
0004.jpg
李仲声さん有名になってくれないかな。ところで、Mさんはここで5年前オメガ時計を買ったそうだ。もちろん偽物。その時計、不思議と狂いが全くなく、正確とのこと。で、まったく同じのがあったので100元で購入。Mさんは、今度はロレックス製時計を購入。しかし、後で大笑い。Mさんのロレックス製は、表もベルトもネジも全てロレックスのマークが入っているのに、なんと裏面はオメガのマークになっているではないか。Mさん、最初発見したときはガックリだが、今はこの珍しい時計に嬉しさを感じるそうだ。また、正確さでもあるらしい。中国の人はこれくらいの間違いは、何とも思っていないのだろう。ホテルに戻って昨夜同様シャワーを浴びてからお疲れ様と缶ビールを飲んでから寝た。

-3月29日(日)晴れ-
昨日もそうであったが、8時45分集合で比較的ゆっくりの出発。本日は、夜に桂林空港から広州空港に行くまで桂林市内観光である。今日は市内観光。最初は。鍾乳洞。光を駆使した素晴らしい眺めであった。自由市場に行き、乾燥まつたけを購入。ガイドの話に乗せられた。家に帰って食べたが、マツタケの味は少しするが、妻にはかんぴょうのようだ、中国では何も買ってくるなと文句を言われた。昼食は日本人経営のホテルで郷土料理。ここは綺麗で、料理も一番美味かった。その後、両江四湖の一つ杉湖に。夜はライトアップされ幻想的な姿をみせた日塔・月塔を対岸から見学、日塔は金色で高さ41m・九階建てで銅製建築として世界一高い銅塔、月塔は銀色で35m・七階建て。どちらも最近観光用に新しく建てられたとのこと。中国の建物はほとんど再建と考えてよく、古い本物は全て土の中から発掘されるものだけなようだ。次は象鼻山公園。まるで一匹の象が鼻を伸ばして漓江の水を飲んでいるかのように見えることから、その名が付いたとのことだが、桂林の発祥の伝説はあるが私には象とは見えず、大したことはなかった。最後に中心街。昨夜、タクシーで来た露店街は平日はなく、そこを通って近くの繁歩行者天国を散策した。ガイドが行っても良いと言った地区は高級品店ばかりで面白くなく、反対方向にいったら骨董品屋台街。昨晩の露店街に比べると小規模だが民芸品など楽しめた。Mさんは水晶の手巻きオメガ時計購入。直ぐ壊れたとのこと。叩けば30分は動くが所詮手巻き時計なので実用品ではない。
さて桂林では電動オートバイがとても目についた。その乗り方も多種多様。傘さして運転する女性。携帯電話しながらの運転。子供を股の間に挟んで運転する女性。3人乗りは当たり前。
0007.jpg
いずれも日本では危険であり、そんな乗り方をする人はいないが、中国では当たり前であり事故なんて想定していない感じを受けるから不思議である。交通ルールはここも無いと同じでありほとんど2人以上での乗車。なお桂林は、京都・奈良同様高層ビルの高さ制限があって、今は19階建が最高とのこと。夕食の飲茶料理の後、桂林空港へ向かう。窓から街の夜景を見ていたら、突然バスの下の荷物庫の扉が開き、トランクが2個落ちた。幸い壊れていなかったが、現地ガイドも運転手もまったく謝りもしなかった。中国人の尊大さを感じた。航空機には21時30分発に乗りこんだ。しかし、こんな夜の地方空港なのに人だかりは凄いモノだ。人口は名古屋の方が多いのに賑やかさは完全に負けている。名古屋なんて世界からみれば全くの田舎街だ。広州空港に22時30分頃着いて、広州のホテルへ0時15分頃到着した。一番辛い行程であった。ホテルについて、シャワー浴びて結構深夜になってしまったが、お疲れ様とホテルの隣のセブン・イレブンで缶ビールを買い、飲んでから寝た。
-3月30日(月)晴れ-
ホテル広州珀麗酒店は桂林のホテルと同じ4星ホテルだが、ずっときれいで朝食のバイキングも美味しかった。都市と田舎の違いかな。広州のガイドは、「黄(コウ)」さんと言う人で自信なさそうに見えた。今日は、マカオである。我々は高速道路で広州からマカオの中国側玄関口「珠海」まで走った。途中、沿岸にはウナギとアヒルの養殖池が多くあり、アヒルもよく見かけた。珠海までの高速道路は運転手がよく飛ばした。いつも中国の高速を走る時はヒヤヒヤものである。珠海から水路フェリーでマカオに入ったが、意外と通関は人が少なかった。珠海もマカオも珠江のデルタ地帯に出来た街であり、海は汚れて汚い。珠江は、中国第5位の長い河川であるが、水量は、中国第2位の大河である。
マカオの玄関口「珠海」は、人口500万人もいる大都市である。今回初めて知った名前であるが、中国は、これくらいの都市はウヨウヨある大国なんだと改めて驚いた。マカオに入ったらガイドは、「アンソニー」さんという、韓国籍の青年に替わった。彼は、日本の大学を出ており、まだ33歳なのに4ケ国語もしゃべる。いつもながら外人は外国語力が素晴らしい。羨ましい限りである。マカオは、東京の渋谷区程の面積しかないが、お金持ちの国?である。カジノのお陰である。今や、ラスベガスを抜いて世界一のカジノ売り上げで、国は豊かな福祉国家らしい。小学校から高校まで全て授業料無料。65歳以上は医療費無料。ガイド曰く、マカオの女性は、プライド高く気位が高いらしい。
家には、ルームメイドを雇っており、家事はあまりしないらしい。ルームメイドは、フィリピン人が多いらしい。
マカオの街は、占領国のポルトガル人の好みである、橙色と緑の建物がやたらと多い。また、マカオの女性は、ポルトガルの血が混じっているのか?エキゾチックで綺麗な女性が多い。街路樹は、南国風で、椰子の木が多い。有名なマカオの天主堂は表の壁だけだった。
マカオ1.jpg
マカオ0.jpg
木造部分は火事で燃えてしまったそうだ。まあ前から見れば、立派。昼食は、バイキング方式のポルトガル料理。初めてビール以外の飲み物、赤ワイン。価格は同じ30元。料理は美味しかった。街は渋谷のスペイン坂のよう、若い人がぞろぞろ歩き、女性向けの商品が多く売られている。教会にも行ったが、十字架は好きになれない。
マカオ2.jpg
その後、スカイツリーが完成するまで、東洋一の高さを誇るマカオタワーに登る。バンジージャンプをする人がいたので、見ていたがちっとも飛び降りない。諦めて遠景の見学。
マカオ4.jpg
地下ではガンダムの展示。ここでもガンダムは人気があるのかとビックリ。
その後カジノ見学したが実際にする時間はなく見学のみとなった。実際、出来ると密かに楽しみにしていたが叶わなかった。もし、やったとしてもおそらく博才のない私は損したに違いないから、むしろやれず仕舞いで良かっただろう。しかし、日中から多くの人々が博打をするもんだと驚いた。ソフトドリンクは無料であり、だれでも出入り出来る。日本で言うパチンコにようかな。そして、ドリンクをただ飲み出来る。年齢制限とマカオの公務員は出入り禁止であるが。カジノの職員は、公務員である。出国は、陸路で珠海へでたが、人の多い事多い事。
出国ゲートは、まるで東京の国電の改札口のようである。行きの水路と大違いであった。マカオ国籍の人が中国へ行くのは回数券みたいな簡単なもので出入り出来るが、中国含め外国人は出入国手続きは普通通りやらねばならない。二人が迷子になって、30分以上ゲートで待ちぼうけ。いつも遅刻するおばさんと姪のペア。食事をし、高速を飛ばしホテルに戻ったら21時30分頃であった。大都市広州の繁華街散策をしたい、タクシーで行きたいと言ったが、Mさんは、今から行ってももう終わっているからこの近くで十分と答えた。あの待ち時間がなければ、行けたのに。
Mさんは何回も中国に旅行に来ており、経験で、ホテルの近くに露天街があると感じていたそうだ。路地に入れば面白そうな店が軒を並べていた。でもここでも店は10時に閉店。ところが、ホテル横のビルに明かりがまだ点いていたので、Mさんは、ビルに入りバック屋に立ち寄る。Mさんはマカオのガイドがプラダを下げていたのを思いだし、欲しくなったそうだ。店主との値段交渉により、交渉成立、気の良さそうな店主と記念撮影。私は、ブランドには興味なく、何も買わなかった。

-3月31日(火)晴れ-
最後の日。オプションを申し込み広州市内観光。しかし、渋滞に入り広州タワーの遠景と広州王のミイラのたった2ケ所を見ただけである。広州一の繁華街と旧居留地の外国風の町並みを見学に沙面(シャーメン)と下九路を見る予定であったが、駐車できないからとダメになったとのこと。全く、お金の無駄遣いオプションであった。これなら、自分たちで地下鉄乗って沙面(シャーメン)と下九路へいった方が楽しかったろう。でも、結果論でありやむを得ない事だ。
しかし、旅行中は本当に天候にも恵まれて良かった。広州も、全体に埃っぽい。その割に、緑が多い都市だ。秋11月のアジア大会に向けて急ピッチに工事を進めているからだろうか?ビル、道等を人力で朝から晩まで働いている中国の95パーセントの貧乏人を養う政府の政策か?広州は、上海、北京に次ぐ人口1200万人の大都市である。けれど、意外と高層ビルは少ない街だ。人口1000万以上の都市は、2007年からバイクの走行禁止である。
中国は電気オートバイ大ブームなのにこの3都市だけである。中国のマンションは、高さで建設年代が判るらしい。1970年代は、5階建。1980年代は、8階建。8階は、人間が歩いて行ける高さらしい。1990年代は、20階建。2000年代は、30階建となっている。実に良く判るなあ。現在もそこら中で凝ったデザインの高層マンションが立てられていたが、本当に住む人はいるのか。テレビ塔は、600Mの高さである。広州のガイドの「黄(コウ)」さんは、添乗員としては、失格だな。説明も不十分で、ほとんど説明しない。質問して初めて答えるだけだ。今回は、3人のガイドであった。「黄(コウ)」さんが全部だったらつまらない旅行になっただろう。オプションが終わり、広州空港に行き上海へとの予定であったが、台風が上海近辺に停滞しており、飛行機が飛ぶか決定されていなかった。
また、飛んだとしても上海から名古屋に飛ぶかも不透明のまま、なんとか時間遅れで広州空港から上海へ飛んでくれた。台風が近くにある割に意外と、空は安定しておりあまり揺れなかった。上海から名古屋についても、なんとか飛んでくれて大一安心。時間は、遅れて到着したがなんとか、セントレアに着いて、荷物をとり名鉄を乗り継いで高蔵寺に無事着いたのは、24時10分であった。

今回の料理は、ホテルの朝食、広東料理、郷土料理、ビーフン料理、飲茶料理、ポルトガル料理、広州料理といづれもとても美味しかった。セーブしようとしたのに旅行中はツイツイ食べ過ぎてしまった。帰国しても増えた体重は依然として戻らない。
今回は、円高の影響で、人民元で1元=12、5円で日本人には良かった。
ゲットしたモノ:お菓子(熊猫派派 パンダチョコパイ 会社へのお土産用)、オメガ自動巻き腕時計、水墨画、油絵、印鑑、ハンカチ・ポシェット等、写真集、乾燥まつたけ
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

中国西安旅行 [中国旅行]

西安旅行について 2010年3月11日(木)~14日(日)

今回は、テニス仲間のMさんに声をかけられて、行くことになった。初めて一緒に行ったが楽しい旅であった。旅行会社「クラブツーリズム」に予約したが、キャンセル待ち7番目であった。私は諦めていたが、Mさんは絶対行けると確信していた。案の定、丁度、1ケ月前の2月11日にGOの電話があり催行した。飛行機の保険については、ゴールドカードの件を教えてもらい、当日直ぐゴールドカードの申請を行い、ギリギリであったが保険に加入する必要がなくなり、感謝感謝。

-3月11日(木)晴れ-
家を5時30分に出て中央線始発の次の電車にのり、金山で名鉄に乗り換えて朝一の飛行機で上海へ。やはり、こんなに早い電車でも結構お客が乗っているのに驚いた。金山での乗り換えもスムーズに進んだ。空港の旅行カウンターは混雑していた。が、すべてスムーズに進んだ。
飛行機は、「中国東方航空」でほぼ定刻に上海プートン空港に向け出発し、予定とおり到着した。上海で一旦降りて、入国手続きをして同じ飛行機に乗り込んだ。上海で降りた人もいたが、上海から別の人が乗ってきており、やはり満席であった。上海まで2時間半、上海から西安も2時間半の計5時間のフライトであった。西安着は、中国時間で13時40分であった。
到着して名古屋からの旅行客は、2台のバスに分れて乗った。我々のバスは、B車である。22名であり、我々以外の男グループ3人組と男1人旅以外は全て中年老夫婦であった。初めて若い人がいないツアーであった。
陝西省の省都「西安市」は昔「長安市」として永く都として栄えた歴史の街である。歴史上初めて「皇帝」を名乗った秦の始皇帝の築き上げた「長安市」は、今は24km程に減ったが現存する最大の城壁があり、延々と続く。素晴らしい。後日、この城壁上を幌付き三輪自転車に乗ることになる。西安市は、内陸地方で寒暖の差が大きい。前日の気温は最高気温0度前後なのに到着した日からは日中20度位に上昇し最低気温は1度位に下がる。春が短くて冬のあと直ぐ夏になるイメージであるらしい。また、砂漠に近いためメッチャ埃っぽい。この二つのセイでMさんは鼻炎から風邪になったのである。
添乗員「せん」さんは、西安市の有名大学西安交通大学出身で誇りを持っておりエリートらしい。彼曰く、中国は、外向きには北京オリンピックで世界中から多くの人達が来たと公表しているが、実際は言うほど来たわけでない。オリンピック後、税金も高くなった。結局、中国国内ではもっぱらオリンピックは赤字であったらしい。国内外のメデア発信の差があるようだ。
西安空港に着いてからバスで空港近くの「漢陽陵博物館」に行った。最近地下に造った博物館で、ミニ兵馬俑といったところ。本来、皇帝は自分の墓の中を後世の人々に見せないよう墓を造ったらしい。だから奥深く地中に造ってあるのだが、よく現代の人達が探し当てたものだ。全く感心する。このミニ兵馬俑もソックリにつくられた沢山の馬・牛・羊・犬・人間・物と皇帝とともに埋められていた。
西安、旧長安は名前は変わっているが秦、漢、唐の王朝の都だったところだが、漢の遺跡は以外に少ない。秦などと比べ長く続いたが地味な王朝だったようだ。夜は、五穀料理を食べた後、玄奘が教典の翻訳を行った「大雁塔」の近辺で噴水ショーを見学した。西安噴水.jpgライトアップした「大雁塔」が映し出されて素晴らしい眺めであり、そこの前広場に音楽に合わせての光線噴水ショーがマッチし素晴らしかった。30分のショーで、無料で毎日9時までやっているそうである。これだけの水と電気があれば一般人に還元すればよいのにと思うが、中国は観光に力を入れているのであろう。周辺の建物も全てライトが付けられとてもきれいだった。西安は、田舎街と思い込んで来たが大都会であった。城壁の直ぐ側にあるホテル(グランドパーク西安)に着いてから、南城門を通り城壁に囲まれた旧市内に徒歩で出掛けた。城門の近くは、LEDでイルミネーションされきれいだった。西安南城門.jpg西安南城門イルミ.jpg本には南城門の近くに骨董屋やとか露天があるとあったが見つからなかった。露天・夜店が沢山あると思って期待したのに、近代ビルばかりであった。しかし、Mさんは屋台や夜店は絶対あると確信し匂い?で探し当てた。ほとんど、女性物の服・ベルト・クツ等衣類関係が多く、Mさんの好きなオモチャやガラクタ等は探すことが出来なかった。でも、MさんはCK(カルバンクライン)の時計を一つ買い満足し、路地商人と一緒に写真を取った。ここらにはもっと屋台が一杯あったのだろうが、それらは皆大きなビルの地下に小さな区画を貰い商いをし始めていた。ビルの名前は東京。グチャグチャの地下に所狭しと店が一杯あり若者も一杯いたが、やはりMさんには屋台・夜店の方が好きであるし楽しいと言っていた。ホテルの近辺にはコンビニがなかった。大体において、西安には日本流のコンビニがまだない。昔ながらの温い缶ビール、埃っぽい酒・駄菓子、煙草を売っている店があった。ここで、缶ビールとつまみ菓子を買ってホテルに戻った。もう、10時半は過ぎていた。私が先にシャワー使いMさんも浴びてからお疲れ様と缶ビールで乾杯した。その頃には0時を過ぎていた。今朝早かったのでお互い飲んで直ぐ眠りについた。

-3月12日(金)晴れ-
 さすがは、5つ星元ANAのホテルである。とても綺麗で掃除も行き届いている。シャワーの勢いも強くて、北京の5つ星ホテルとは違っていた。トイレも日本と同じ水洗。山岳に近く、水も豊富らしい。このホテルは見直した。朝食のバイキングもとても清潔で綺麗なレストランで美味しかった。昨夜は、疲れてグッスリ寝たせいか快眠快便で絶好のスタートであった。朝は5時頃には目がさめて、ゆっくりお風呂に入った。Mさんは朝が弱く、食後、集合時間の9時までに朝風呂までに入っていた。今日は、この旅行のメインである兵馬傭。まず、西安の郊外、市内から東へ約36kmほどのところの始皇帝陵へ。高さ104Mの古墳、地下も同じく104M掘られていると推測されている。凄い権力の墓である。現在、この墓の周りには何も建てられていなく、また、掘られてもいない。この近所の住民の田舎家にはきっと骨董品で一杯であろうとガイドが言った。なお始皇帝陵は、木造の宮殿がすっぽり納められているといわれるが、海や川を模した水銀が流れているとも言われ、保存の困難性や水銀の有毒性などがあり発掘されるのは、数十年先になるとのこと。いよいよ兵馬俑に入った。西安兵馬俑.jpg西安兵馬俑1.jpg兵馬俑は、お墓を守る陪臣が飾られたところだがすごい規模。最も見学したかった世界遺産である。秦の始皇帝は、初めて皇帝と名乗った14才から自分の墓作りを始めて、死んだあと半年間、トータル38年間も自分の墓を造らせたらしい。それを守る陪臣が埋められているのが、20世紀最大の発見と言われる兵馬俑である。今のところ8千体程あり、現在発掘済みのもの2千体ほど。現在も発掘が慎重に進められているとのこと。発掘された俑は空気に触れると劣化し、脱色が始まるからとのこと。等身大の兵隊・馬・牛・羊・犬・食物等凄い。中には彩色の残っているものや秦滅亡時項羽に焼かれた後が残っているものなどもあった。絶大な権力を持っていた皇帝も、死後の恐怖は皇帝も庶民も同じなのであろう。この兵馬俑は、1980年代に農民が井戸を掘っていて偶然発掘したもので、掘り出した最初は、骨董屋に持って行っても相手にされなかったらしい。その後、国をあげての大発見となっていったのである。発見した楊志発さんは、当時のお金で300元貰ったらしい。当時は300元で家が建てれたらしい。今この人は、この兵馬俑博物館の館長をしており、お土産売り場では、この人のサイン入り本が大いに売れている。本日もこの人がいて兵馬俑の写真説明本をサイン入りで1200元で売っており、よく売れていた。私も購入した。買う人は、運が付くとの思いで購入するらしい。この本は、他の土産物でも売っており、サインもないのに1500元位していた。兵馬俑置物を1000円、1000円と売りに来ていた。交渉したら10元に。名古屋の博物館の中国展で兵馬俑置物を一体買っていたが安いのでまた買ってしまった。皆車中でいかに安く買ったか自慢しあっていた。秦の始皇帝は、中国を初めて統一し「皇帝」という名前を初めて使った最初の皇帝で始皇帝と言われている。秦の始皇帝時代の3大発明は、「紙」・「印刷」と始皇帝が不老不死の薬を造らせていて偶然、反応し爆発してしまい発見した「火薬」である。この後李白の長恨歌で有名な華清池に行き、楊貴妃と皇帝玄宗の湯殿を見学した。建物は再建で、風呂は発掘で出てきたらしい。西安近辺では温泉が湧いており、秦の始皇帝も温泉の存在を知っており温泉に浸かっていたらしい。西安楊貴妃.jpg楊貴妃と皇帝玄宗の風呂はプールのように広く大きく温泉が流れ込むようになっていた。こんな大昔に凄いことだ。ここで、釣り鐘状のオカリナを私とMさんは買った。ホテルの売店では120元していたが、ここで1つ20元にしてもらい買った。Mさんは、直ぐに吹いてみたところ、オカリナの塗料が口の周りを黒くした。大体において、本物以外はこんな調子である。Mさんは、元々飾りのつもりだが、私は自宅でニスを塗り直した。昨晩移項と持った若者が主に集まる繁華街の前を通った。人・人・人・人・人・・・まるでアリがゾロゾロ歩いているようだ。人の多さは街の活力、エネルギーを感じる。Mさんは、西安に到着してから埃っぽいのに気にしていたが、この日から連続デカイクシャミ連発、目のカユミ・ショボショボに悩まされていた。あまりの大きなクシャミに皆な心配し、親切に新品の目薬を渡す人もいた。
夜はオプションの舞踊見学を進められたが断って昨晩あるいた露天街をまた歩いた。昨夜見つけたスーパーでお菓子やビール、土産物を買ってから屋台・夜店を漁ったが、特に欲しい物はなかった。行き帰り徒歩だが、交通マナーの悪いのには驚いた。歩行者は信号無視は当たり前。横断歩道もあまりなく、あって人が渡っていても運転手はスピードを緩めない。横断歩道を渡るのは命がけだ。南城門の城壁の側は、旧正月のイルミネーションが残っていて光が物凄くきれい。中国は光を上手く使って観光に役立てている。日本とは違う。おっかなびっくり道路を渡りホテルに到着。戻って昨夜同様私が先にシャワー使いMさんも浴びてからお疲れ様と缶ビールを飲んでから寝た。

-3月13日(土)晴れ-
今日は、朝一番に著名な書家の書いた書の石碑がある「石碑博物館」に行った。漢字は中国人にとって誇りとなっており、この中からコンピュータなどの書体も採用されているとのことであった。孔子の論語なども彫られており、少し意味がわかった。ここに来るのは主に日本人と中国人かな。観光客は少なかった。この後、陝西省美術博物館に連れて行かれた。ここでは高価な宝石から作った彫刻や、当地で有名な画家や書家の作品を説明し販売していた。どれも数十万円する品物ばかり。格安ツアーの参加者相手では、誰も買う人はいなかった。中国は博物館など政府系の施設でも熱心に商売をする。こんな高価な物を買えるのは、高級中華料理店の経営者が店の飾りで置くぐらいだろうか。時間が長かったので絵や書を一人で見て回った。次に寄ったところは、絨毯の販売店。販売店の説明員は、関西の大学を出たらしく、吉本的なのりで販売勧奨し面白かった。絹の絨毯は、段通よりも高級とのこと。触るとさらっとして気持ちよく、また光の当たり具合で模様が異なって見えて面白かった。絨毯は4帖半ほどで約10万円、絨毯は要らないと妻に言われていたので買う気はなく興味本位で見ていたら店員が説明に来て、絨毯やストゥールなどの販売をしつこく付きまとわれた。買っても良いとは思ったが時間切れ、同行の三人組のおじさんたちも値下げ交渉をしていたが交渉はまとまらずここでも誰も何も買わなかった。日本円で数千円の差であったそうだ。最低価格は決められているようだ。その後、一昨夜噴水ショーを見学した玄奘がインドから持ち帰った膨大な教典の保管するために立てられた「大雁塔」を見学した。少し傾きかけており斜塔としても有名である。中国では征服王朝のため、王朝が変わると前の建物などを全部破壊してしまうため、ほとんどの建物は再建だそうだが、この塔は、増築、崩壊を繰り返し現在は7層の建物として残っている数少ない古い建物だ。上に登り市内を一望した。塔の近くは公園で低層の建物であるが郊外には高層ビルが立ち並んでいた。やや埃っぽく霞んで見えた。西安大雁塔からの眺め.jpg砂漠が近いので砂埃が到来しているのだろうか。時間がなく大慌てで階段を降り集合場所に向かった。お坊さんは黄色い袈裟を着ており、日本とは異なっていた。次に行ったところは、日本の空海が学んだとされる「青龍時」、大した寺ではなかった。これは再建したもの。四国の真言宗の信者が寄付して立てた塔や公園があった。桜が植えてあり、いつかは桜の名所になるだろうと思われた。周辺は汚い住宅街があり、壊して新しく立て替えられており、埃っぽかった。お寺では、納経帳(スタンプラリーのような記帳書)などが日本と同じ価格で売られており、結構買う人が多かった。ここは日本人しかこないところであろう。菅直人の記帳のある色紙があった。坊主になって四国のお遍路巡りをした時にでも来て書いたらしい。0番所である。この後西の市中心部に、市の中心の鐘楼や鼓楼をバスから見学し、イスラム街に到達。ここが正にMさんの待ち望んだ西安に来て見あたらないとガッカリしていた市場だ。たくさんの露天が出ており、ガラクタやお土産、食べ物が売っており、多くの人で混雑していた。西安イスラム街.jpgイスラム街は面白いとは聞いていたが、面白い意味が分かった。もう、Mさんはワクワクしていた。取り敢えず夕方は時間の関係で下見と決めた。食事の餃子は、とても美味しかった。色んな種類の餃子が出てきた。数も多く堪能した。日本の餃子とはひと味違う。日本の琴と同じような楽器を演奏していた。夕食後、私は鐘楼を上って見学してからイスラム街に行くと言って、直接イスラム街に行くMさんとは分かれ、自由行動することとした。しかし鐘楼は、もう閉まっていたのでイスラム街へ戻った。イスラム街の入口付近ににせ物時計の店があったので、私もMさんの真似をしてロレックスの自動巻きの偽物を購入。買い方をMさんに伝授してもらっていたので200元と店員が言っていたが、こちらは100元と指値。交渉は決裂し、帰ろうとしたら100元でOKということになり購入。ちなみにこの時計1ケ月で壊れた。叩くと動くがしばらくすると止まってしまう。奥の戸棚にも偽物時計が一杯あったがこちらは200元で負けないとの言。購入後出店を見学、いろんなものが安く、ホテルで値切って買って100元で購入した民具の影絵は20元、オカリナは5元、まったくがっかりした。切り絵の干支の絵を購入し、CDを探してブラブラとイスラム街市場を廻った。夕方より人が増えて、人人人人だ。このイスラム街市場は、千年前にシルクロードの出発点としてイスラムの人が集まりそのまま中国人と交わったり結婚したりして住み着いたイスラム教の人達である。だから、過激なイスラム教の人達でなく中国に上手く仲良く溶け込んでいる人達で安心である。顔も西域の人々の面影は残っておらず、中国人そのもの。服装だけがイスラム風であった。狭い道にギッシリ屋台が並び活気溢れる風景である。この市場を何度も行ったり来たりしながら西安最後の夜を堪能した。凄い人混みの中で、偶然、Mさんと出くわした。よく、逢えたものだ。Mさんも私と同様に時計を買っていた。オメガの時計・毛沢東の懐中時計、また私が購入を失敗した踊りの影絵を額つきで安く購入していた。オメガの時計と毛沢東の懐中時計は、最高に満足したとのこと。イスラム街は面白い。面白いのはモスクかなと思っていたが、露天街だった。良く調べて、早く来るべきだった。出口で甘藷を絞って出すジュースを購入して飲んだ。甘くて美味かった。最後の夜を今まで通り寝る前に二人で乾杯し寝た。

-3月14日(日)小雨-
今日は小雨も降って寒い日であった。そして、本日の行程は城壁上を三輪車に乗って走り見学するのであった。城壁は唐の時代にできたものは破壊されており、明の時代にできたものであったが、西の安定門は、西域シルクロードへの起点であり、ロマンを感ずるところだった。西安安定門.jpg城門を階段で上り、旧市街を囲む24km程ある城壁のうち、約四分の一ほどを三輪車に乗って走った。駐輪上には何台もの三輪車があった。運転し足で漕ぐのはもう60歳以上の人ばかりである。中でも我々の乗った運転手は60歳後半であろう。申し訳なく思った。雨に中を城壁上を幌付き三輪自転車を赤いユニフォーム姿で漕ぐ老人軍団という感じ。予想以上に長く走った。30分くらい雨の中を走った。我々の叔父さんは真中位を足っていたが、10分くらい過ぎた頃、突然猛スピードで走り出し他の三輪車をゴボウ抜きで一番前に躍り出た。そのまま、先頭を走り最後までその座を渡さなかった。城壁の道は、走りにくいデコボコなのによく早く走れるものだと感心するとともに脚力に脱帽した。西安城塞.jpgまた、この人はおそらく仲間の中で最長老なのであろう。他の人達の態度で想像がつく。降りた場所はホテルの側の昨日旧正月の夜景を見たところだった。なお雨は西安では、恵みの久し振りの雨だそうだ。空港に行く途中で、国営の宝石の研究所に寄った。古い4階建ての建物、今日は休みであり、担当者のみの対応である。翡翠の鑑定方法などを説明してくれた。何人かの人が装身具などを買い物をした。この後、西安空港へ向かった。着いてから、空港内のレストランで昼食。この昼食が西安に来て一番良くなかった食事であった。
飛行機は、西安空港から上海空港、セントレアと全て満席であった。雨もふっており飛行状態は悪かった。西安出発時間は、雨の遅れで1時間遅れで出発した。でも上海で30分取り戻せて最終到着時間は、30分遅れとなった。セントレアについて、荷物をとり名鉄を乗り継いで高蔵寺に無事着いた。
その他、気づいた事。
中国で「・・・交通大学」とあるが、日本人的には車関係の大学かと思いがちだが、これは、日本でいう理科大学のことである。また、有名な「北京大学」は、政治家になりたい人、共産党員になる人が多く入学する。西安のメイン大通りには、二階建てバスが路線バスとして走っていた。中国の内地なのに数も多くビックリした。そして、満員で走っていた。ホテルの朝食、五穀料理、領土料理、精進料理、餃子料理、火鍋料理、いづれもとても美味しかった。セーブしようとしたのにいつものように食べ過ぎてしまった。
土産は、売り手が人を見て売っている。3月の西安市は、内陸地方寒暖の差が大きい。前日の気温は最高気温0度前後なのに到着した日からは日中20度位に上昇し最低気温は1度位に下がる。この季節は日本とほとんど同じですごしやすい気候であった。ホテルは、便利で立地条件も良く綺麗で良かった。
今回は、初めて露店に行った。旅行社は安全でないと連れて行ってはくれない。事故にあっても全て自己責任となるが、お土産ならここで十分だ。買物交渉出来楽しかった。言葉は要らない。態度でわかる。要らない(ブダイ)ぐらいは知っていたほうが良いかな。計算機て値段を示してくるので先ず半値で返す。こらからが交渉。絶対欲しいという態度は示さないこと。どうでも良いものは四分の一か三分の一からの交渉でもよい。関西人は値切り交渉が上手くて売りにくいそうだ。食べ物は食べないほうが良い。どんな油を使っているかわからない。なおここでも臭豆腐が売られていた。こればかりは降参だ。中国はどこも交通ルールは、ないと同じである。しかし、ルールを強化したらしく1日26人の交通事故死者が今は6人に減ったらしい。運転者、通行人のマナーが悪いこと大である。特に、ホテル近辺の広い道路で信号機もなく真っ暗交差点を行き来する車の間を横断するのは怖く危険そのものであるが、現地中国の人は当たり前に平気で横断している。ビックリ感心する。ルールは守らない。運転者、通行人のマナー悪いこと大。ヒヤヒヤもの。
今回の教訓
ホテルでは買い物しない。観光地では買い物しない。価格交渉をして半値にしたとしても絶対高い。土産は露天で、値段が全く違う。品数も多い。価格交渉は絶対必要。旅行社の企画するオプショナルツアーに全て参加すると時間がなくなるので適当に断って、出かけたら良い。今回は買い物は失敗だった。
ゲットしたモノ:影絵額、切絵、兵馬俑置物、兵馬俑本、ロレックス時計、印鑑2ケ、オカリナ
nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

中国旅行北京 [中国旅行]

北京旅行について 
初めて中国北京に行った時の感想です。尖閣諸島までは中国が好きだったんですが。今年も秋に旅順でも行きたいなと思っていたんですが、今は大嫌い。あんな国だなんて。でも去年から今年3回旅行した時の感想を順に書きます。写真は別途。準備してから。最初は北京旅行の感想。旅行はHIS デラックスホテルに泊まるてんこ盛り北京5日間、愛犬イブの世話を娘がしてくれることとなり久しぶりの女房との旅行だった。楽しい旅であった。

7月24日(金)晴れ
家を5時30分に出て中央線始発の次の電車にのり、金山で名鉄に乗り換えて朝一の飛行機で北京へ。空港の旅行カウンターは混雑していたが、すべてスムーズに進んだ。
飛行機は、「中国国際航空」でほぼ定刻に北京空港に向け出発し、予定とおり到着した。飛行機を降りて、入国手続き。インフルエンザの影響で、入国審査はしっかりチェックされる。北京空港の広さにびっくり。空港で到着ロビーに下りてから電車二駅乗り、出口へ。北京着は、中国時間で11時55分。北京まで3時間半のフライトであった。
名古屋からの旅行客は、16名であり、見る限り若い女性の組が一組、おばさん同士の組が一組、あとは夫婦連れであった。
空港で1万円両替、約700元であった。1台のマイクロバスに乗った座席は最後尾の前。北京気温は日本と変わらず、夏なので暑い。天気は晴れているが少しかすんだように埃っぽい。
現地ガイド「王毅」さんは、満州族出身で、氷川きよしに良く似たいけめん、日本には何回も会社の研修で行っているとの。
空港からホテルに行く途中で「芸術区」に行った。昔の紡績工場の跡地のビルに芸術家が住んで創作活動をしているとのこと。低層の建物が多く、薄汚くて、窓も割れており、大学の構内のような印象。絵画や彫刻などを売っている。駐車してある自家用車はフォクスワーゲン、アウディが多い。トヨタ、ホンダ、韓国のヒュンダイと各国の車も並ぶ。
お店やさんに入る。早速同行の大石夫婦が花瓶を購入。お金の表示は¥。円と思って安いと思ったら、中国も元の表示も¥(yun)。用心用心。
現代アートばかりだが面白い、作品も多かった。芸術区を1時間ほど散策した後、ホテルへ。ホテルは北京西駅近くの北京ホンクンインターナショナルホテル(北京鴻坤国際大酒店)比較的新しい五つ星ホテル。将来は、近くを地下鉄が走るので便利になりそう。ホテルは近代的だが近くの民家は壊れそうな汚いところが多い。
着いたら雨、北京では雨は珍しいとのこと。エレベータを上がって19階の部屋へ。早速不具合チェック。五つ星ホテルでも不具合があるそう。よく見れば壁に駆けた絵は傾いていた。それ以外は特に問題なし。トイレは水洗だが水の出が悪くトイレットペーパーは日本のように流せないとのこと。側の籠にお尻を拭いた紙は入れるようにとのこと。後日うっかり日本と同じように流して詰まってしまい、大変でした。
郷土料理の食事、明日からのオプショナルツアーやマッサージサービスの説明がある。雑技、京劇、カンフショーを順に見ることとする。ホテルに帰って自由時間は今日しかないと、少し休んでから、北京の繁華街へ妻と出かける。地下鉄に乗りたいので、軍事博物館駅まで約2kmを歩くこととする。道路は、町全体が工事中みたいで埃っぽい。汚い民家の側を通って、歩くが中々着かない。天安門前を通る大通りに着いたら、色々な形状をしたバスがスピードを出していっぱい走っているので、バス亭の数を数えておけば降りれると2連結バスに乗る。何とか最大の繁華街王府井(ワンフーチン)の近くのバス亭で降りれる。家に残してきた犬の状態が心配なので、携帯電話のsimカードを売っている店を見つけ中国移動通信のsimカード神州行50元を購入し、電話。何とか繋がり無事とのこと。なお電話機はsimフリーのノキアのE61。歩いているとなんと同じツアーのおばさん浅井さん達、大石さん夫妻と出会う。まったく珍しい。浅井さん達はマイケルジャクソンのDVDを購入。店は10時には閉まるため、私は急いで人民帽のような帽子を購入、北京の銀座なので結構高く、80元ほどした。
その後6人でタクシーで帰宅。帰り道天安門前を通ったがイルミネーションできれいに飾られていた。
北京天安門.jpg

7月25日(土) 晴れ
今日の予定は万里の長城。途中宝石店に立ち寄り。浅井さんは翡翠のネックレス購入。安いツアーにはお土産店はつき物だが、誰か買ってくれるので助かる。中国は自転車と思っていたが、道路はマイカーで大渋滞。土日は休みで皆万里の長城などの観光地に行くらしい。八達嶺でロープウェーに乗り長城の一つへ、延々と続く、大きな建物、見る価値あり。
北京万里の長城.jpg
ここで帽子を購入、20元。帰りにお茶店により、茶を購入。茶碗に蓋と茶漉しの付いていたものがあったので珍しいと思って見ていたら、強引な売り込み、仕方なく購入120元で2個。クレヨンしんちゃんの人形を二つ付けさせた。もっと安くかえたのかな、失敗。
バスの中で、印鑑の原石を貰い、2個印字を彫ることを依頼。後で考えると印字を彫ることで儲けているみたい。但し日本よりは安い。でも石の印は割れるかもしれない。鳥の巣、水立方を外から見学し、北京の古い町南ろく鼓巷を散策。南ろく鼓巷(NANLOUGU XIANG)は壊されつつある旧民家を一部残した地区、おしゃれなレストランやショップがオープンしつつあり、華やかな姿に変わりつつあるが、生活の匂いが少なく、将来は渋谷のスペイン坂のようになるのでは、でも一寸面白い。
北京南ろく鼓巷.jpg
北京料理の後北京雑技団のサーカス。これは面白かった。帰りはまた帰り天安門前を通ったので写真撮影。
7月26日(日) 晴れ
先ず北京動物園、パンダを近くで見れて妻は大満足、記念にキーホルダー購入。
北京動物園.jpg
動物園の中より、外のほうが同じ品物でも安かった。漢方薬の店に立ち寄り。漢方薬の医者が何人も出てきて診察すれば異常が分かるとのこと。問診表をみたら病気の症状が書いてあり、一寸掛かった人ならば直ぐに検討が付く内容。出鱈目を書いておいたら検診では見破れなかった。浅井さんの友達は、見れば皮膚が荒れているのでどこかが悪いと素人にも分かるが、病気を言い当てられて、冬虫夏草など高価な薬を購入。初めから買うつもりだったようだが、買う人がいて安心。その後昔の民家が残されている胡同(フートン)を散策。胡同とは明代から続く北京の街並を構成していた庶民の住宅街そのものである。700年近く続いてきたが、路地と中庭を囲む平屋住宅群は、再開発と経済発展の荒波に飲まれて容赦なく取り壊されている。こういうところを残してほしいものだ。胡同には清時代後期の高級官僚の住居とだったところもあり、家の門の段数とか獅子の大きさとかで区別されていた。胡同の水彩画の画家の家を訪問。狭いがずっと住むことが許されているとのこと。 4部屋ほどあり、お風呂はなくシャワー。屋根にペットボトルを載せ、太陽熱温水器として利用していた。一部屋は仕事部屋で牡丹の絵が一杯描いてあった。そこで梅と鶴の絵を2枚購入350元。ネットで調べたが画家名は乗ってない。有名な人ならそんな所に住んでいないと納得。その後輪タクで胡同地区と什刹海(十刹海)と呼ばれる地域を一周。その後天安門広場へ。天安門はニュースに出てくるとおり。食事は故旧の側で広東料理。食後故旧博物館へ。ラストエンペラー通りの風景を確認。ここで大変なことが起きた。同行の松岡夫妻の奥さんが行方不明に。旦那さんがトイレに行っているのを知らずに出口の方に行ってしまった模様。全員みやげ物売り場に1時間以上立ち止め。王さんも真っ青、場内放送で呼びかけても反応なし。旦那は旅行中威張っていたとか、奥さんの世話をせず酷いとか悪口が散々出る。結局は博物院の展示物を見る時間がなく、婚礼の道具など見て博物院を出る。前に台湾に行った時、重要な品は全て台北の博物院にあると聞いていたので特に残念ではなかった。ところで奥さんは予想通り出口で待っていた。見失ったところから急げば15分のところだったのに残念。
北京紫禁城.jpg
北京紫禁城遠景.jpg

博物院の後は、故宮の北側にある人工の山景山公園へ、頂上からは故旧全体が見渡せる。風水で、北からの邪気から居城を守るため作られたといわれている。山の下では、老人がダンスや太極拳、どうやって暮らしているのか。
その後今日は上海料理、その後京劇鑑賞。ミャーミャー語で項羽と劉邦鴻門の会や孫悟空をやっていたが退屈で居眠り、見たいと言っていた妻も横で居眠り。繁華街へ行っていた方が良かった。ホテルに帰ってホテル近くのお茶の交換所街に出かける。靴下と下着を持ってこなかったので、そこにあるスーパー「家楽福」に出かける。中国人居住区で4階建ての低所得者用アパートが立ち並ぶ中を通る。スーパーの近くでは、路上でも品物を売っている。スーパー近くで臭豆腐を売っていたが臭くて息ができなかった。スーパーでは、土産の乾燥きくらげとパンダのお菓子も買う。店員は中国語しか話せず、困ったが、漢字で用を足せた。便利なものだ。すし屋も中にあったがどんな味だろう。2階立てだったがキャッシャは1階のみ、計算が鈍い。お釣りとして普通は手に入らない角紙幣を入手。しかし本当に汚いお札、日本のように交換しないのだろうか。店は10時には閉店。帰り道でお茶取引所街のお茶屋に入りお茶購入。飲ませてから販売している。観光途中で入る店よりは安い。ここでは少し英語が通じた。
7月27日(月)晴れ
今日は、郊外観光。高速道路を走って盧溝橋と周口店の北京猿人遺跡見学。盧溝橋には抗日の戦争博物館があった。城門見学だけ、中には入れなかった。周口店は退屈だった。帰りには、絹布団の販売店による。安いが誰も買わなかった。昼食に四川料理を食べた後、頤和園へ。
北京頤和園.jpg
西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により再建された公園。造営のため、清朝は、海軍予算を再建費に流用していたこともあり、日清戦争で敗北の原因の一つとなったとも言われるが、人口池とその土を盛ってできた人口の山でできた広くきれいな公園であった。蓮の花が咲き始めたところだった。外では、農民がとうもろこしや果物を売っていた。夕食の北京料理を食べたあと、カンフーショー「功夫傳奇(カンフーでんき)」を鑑賞に。ストーリーは、ある日母親と離れてしまった幼子が寺の近くで発見され、寺に引き取られた子供は禅宗と武術の修練を重ね、やがてたくましい青年となり、さらには伝説的カンフーの達人となるまでの困難を描いた成長物語。臨場感あふれる立ち回りシーンや、ダイナミックな身体の動き、そして美しい雑技と共に繰り広げられるアクロバティックのすばらしかった。イギリス講演もあるとのことで大変面白かった。台詞がすべて英語。これは見る価値あり。
7月28日(火)晴れ
旅行の最終日。朝は曇って少し雨模様だったが、天壇公園に行った。天壇公園は、1420年に建設された中国最大(270万平方km)の壇廟。北京城の南東に位置し、明・清の皇帝が毎年豊作を祈った場所で、世界遺産に指定されている。
中に入ると、老人達が、色々な団体に分かれ、ダンス、太極拳、合奏、コーラスなどしていた。妻は笛の演奏に興味をもって見ていた。楽譜は五線譜とは違うが、読めたそうです。門を入っていくと、紺色の瑠璃瓦に金色の玉をもつ円形の殿堂・祈年殿、それと祈谷壇を主とする建築群があった。オリンピックのため、建物は故旧と同じように彩色がやり直されていたため、きれいだった。
北京天壇公園.jpg

 石板を敷いたお祈りの場所で、観光客がお祈りをしていた。中国らしい祈年殿などの建築物は、壮観だった。
見学の後、天津百餃園という餃子の専門店に行き、餃子を食べた。200種類以上の餃子が食べられるそうだ。
最後に、最大の繁華街王府井に行った。人で一杯だ。特に買うものはないので、Tシャッを記念に買った。共産圏の国でも教会もあるのですね。結婚式を挙げていた。一時間近く散策し、イザ帰国の途へ。今回見なかった世界遺産は明の明十三陵。中国はまだまだ行っていないところが多いので、もう来ることはないでしょう。帰りのバスから壊される予定の古い建物の写真を写した。中国のエネルギーを感じる旅でした。
飛行機は、全て満席であった。セントレアについて、荷物をとり名鉄を乗り継いで高蔵寺に無事着いたのは、23時50分であった。
その他、今回同行した浅井さん達は、確か70歳から中国語を勉強し中国が大好きになった人達でした。中国では、商売は駆け引きです。
駆け引きに必要な言葉を教えて頂きましたので紹介します。
高い   ガオ(高)
いくら  トゥチャオチェン(多少銭)
いらない ブヨウ(不要)
高すぎる タイグイラ(太貴了)
お金ない メイヨーチェン(没有銭)
もう一度言って下さい。 チンサイチェオ  イーピェン
書いて下さい チンシャイーシア
良い ハオ(良)
悪い プーハオ(不良)
お早う サオチェンハオ(早上好)
こんばんは ワンシャオハオ(晚上好)
さようなら サイチェン再見
●見ているだけです
我只是看看
Wo3 zhi3shi4 kan4 kan4
ウォーツーシーカンカン
●これはいくらですか
?个多少銭
Zhe4ge duo1shaoqian2 ?
ツク ヅォシャオチェン
●高いですね
太貴了
Tai4 gui4 le
タイ グイ ラ
●安くしてもらえますか
便宜点好?
Pian2yi dian3 hao3 ma
ピェンイーヂェン ハオマ
●分かりました、いりません、さようなら
明白了 我不要了 再見
Ming2bai le wo3 bu4yao4 le zai4jian4
ミンバイラ ウォー ブヤオラ ザイジェン
中国の貨幣は、人民元で1元=14円です。
買ったモノ:絵画、切絵(万里の長城)、お菓子(パンダ)、キーホールダー(北京動物園)、兵馬俑置物、Tシャツ、扇子、印鑑(2個)、乾燥きくらげ
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

演奏会 [グリーンピア春日井]

良い天気で植物園には大勢の人が訪れていました。
クリスマスの飾りはできていました。24日からは夜間のイルミネーションも点灯するそうです。
演奏会は、大正琴とバイオリンを合成した日本オリジナルの楽器の演奏でした。
温室は、車いすが通れるように整理され、スッキリしていましたが、私はごちゃごちゃしていた前のほうが好きです。
次は夜間のイルミネーションを載せます。
コンサート0154.jpgコンサート0155.jpgコンサート0156.jpgコンサート0164.jpgコンサート0159.jpg
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。